(聞き手・構成:松本和也+後藤隆基)
▪︎働きたくなかった
── 関さんは、1997年に三条会という劇団を立ち上げ、
千葉市を拠点に演劇活動を続けてこられました。
台本を書かずに、一貫して演出だけを行っている
専業の演出家です。
今日は演劇を始めたきっかけ、演劇でやりたいこと、
もっといえば「なぜ演劇なのか」というお話を
伺いたいと思います。
関 演劇を始めたきっかけは、
これは親に言うと申し訳ないんですが、
働きたくない、と……(笑)。
── (笑)。
関 17年間、なぜ自分が演劇を続けてきたのかを考えると、
様々な矛盾にぶつかることがあったんですね。
── 矛盾、というのは。
関 たとえば、演劇というのは、そんなに大勢のお客さんに
見せることができるものではないんです。
僕はそこまでいってないけれども、
せいぜい1000人単位の話ですよ。非常に少ないと思う。
ですが、実作者の欲望としては、
多くのお客さんに見せたいという欲望がある。
そういった矛盾を抱えていること自体が
楽しさのひとつですね。
── なるほど。
関 それと、演劇は人間の愚かさとか、
かっこ悪さを表現するものだとも思うんですが、
かっこ悪いものをかっこ悪くやらずに、
どうもかっこいい風にやっている。
そのことも、何か矛盾を感じるんですね。
実際に作品をつくる中で、色々な困難にぶつかるところが
演劇の魅力なのかもしれません。
そもそも僕は演劇をやっていて、
あまり楽しいと思ったことはないので。
── え、そうなんですか(笑)。
関 働きたくないから始めたんですけど、
そんなに楽しいと感じたことはない。
いつも何かしら、すっきりしない困難にぶつかります。
── 作品や公演単位ではすっきりしないにしても、
稽古などの過程で、その矛盾が魅力になったり、
ふだん見つけられないものを見つけたり、
ということはあるんですか。
関 あるんですけど、その矛盾が
稽古を通してすっきりするわけではないんですね。
すっきりしちゃうと劣化したものを
やっていることになるので、
むしろその矛盾を増幅させる方向に行きたいわけです。
「作品をつくり終えた後の日常生活がつまらない」
みたいな意見をよく聞くんですが、
僕は、たとえばシェイクスピアの、
人が普通に殺し合うような作品をやっていると、
そっちの世界にいるほうが、よほどつらくて(笑)。
── なるほど。
そのことをふまえて改めて伺いたいのは、
それでも演劇を続けている、ということの理由です。
日常のほうが安全で楽しく、演劇が困難だとして、
なぜ、その困難なものに関わり続けているんでしょうか。
関 たとえば、演劇を見ることが好きとか、
そういうことってあると思うんですが、
それもないんですよね。
……たぶん、まだこれという作品をつくれてないのが
一番の理由なんじゃないかな。
もう一回こういうものをやってみようとも思えてないので、
もうちょっといい作品をつくりたい。
── まだ、納得できない、と。
関 で、僕は演出家なので、俳優と違って、
自分で作品の評価ができるということはありますね。
俳優はたぶん自分がやっていることは見えないと思うので。
これを言うと自己満足と思われてしまうかもしれませんが、
僕は評論家やお客さんに悪く言われても、
結局、評価は自分でしているので、
見てくれた人に「おもしろかった!」とか言われても、
僕自身は「そう?」って思うときもありますし、
自分にとって大事なのは、
おもしろかったとか楽しかったとか、
そういったところじゃない感じがします。
人から「あの芝居、おもしろかったから行きなよ」
とか勧められても、
「おもしろいの? じゃあ行く」
とは思えなくて、そこが僕の行動力にならないので、
何て言われたら行くのかなあ、
ってことを考えるのは楽しいですね。
逆に「つまらなかった」って言われるほうが
興味をそそられるかもしれない。
単純じゃないんでしょうね。
── 「おもしろい」という評価をめざしているのではなく、
作品については自己評価もでき、
周囲の評価に左右されることもない。
その上で、ただ納得するものができていない、と。
だとすると、たどり着きたい演劇というのは、
どのようなものですか。
関 先ほど言った矛盾とも関わるんですが、稽古をして
「多くの人に見せたい!」
って思いたいんですよ、本当は。だけど、
「まあ、500人くらいでいいかな」とか、
「1000人くらいでいいかな」と考えてしまう
自分もいるわけです。あるいは、
「もう誰にも見せたくない、恥ずかしくて……」
と思うこともあるかもしれない。
だから「多くの人に見せたい」というのが
モチベーションとしては大きいかもしれませんね。
ただ、ずっとやってきて、どうしても
「見て!」って感じにはなれない(笑)。
── 見せたいポイントとしては、
60分の作品を最初から最後まで見て
至りうる感動があるとして、
それでも印象的な一場面、一瞬で見せたい、
といったねらいがあるんでしょうか。
それとも、流れや構成の中で見せたい、
というほうが強いのでしょうか。
関 「これは再現できないな」って思う場面があるんですが、
そういうものほど、見せたいなと思います。
でも、再現しなきゃいけない。そのへんが難しいですね。
ただ、ぐっと来る感じよりも、ぐっと来ないで、
上演時間中にお客さんが寝そうで寝ない時間を
つくることができるようになったのが、
ここ数年の演出家としての進歩かもしれませんね。
▪︎演出という作業
── 関さんが演劇を始めた頃、あるいはもっと以前から、
アングラの一時期や一部の人を除けば、
とくに小劇場では、ほとんどの場合、
作・演出を兼ねる書き手が劇団内にいる状況で、
オリジナル作品を上演するのがスタンダードでした。
そうしたいわば前提の中で、
演出一本でやることの自覚や戦略について
どんなふうにお考えですか。
関 劇団がどうなっていくのか、作品がどうなっていくのか、
ということは、未来を予見する作業なんですね。
その未来を予見しながら作品をつくっていく。
と言っても、人が急に交通事故で亡くなってしまったり、
病気になってしまったりすることは
予見できないわけです。
僕にとって戯曲は2次元のもので、
演出家として演劇作品をつくることは3次元のものなので、
その作品をつくる上での未来――戯曲には、
日本の未来とかが書かれてあるかもしれないですけど――を
予見していく作業、もうちょっと身近な未来に
興味を持っていたということは言えるのかな。
── 関さんにとっての演出は、ひとまず、
2次元の戯曲を3次元化する作業、
といってよいのでしょうか。
関 そうですね。
書かれてある言葉どおりに人がしゃべり、
その世界を肯定していくのが、結構しんどいんです。
人が書かれてある言葉をしゃべる世界なんて嫌だなって。
書かれてある言葉じゃないものが出てくればいい、
そう思いながら、
色々な状況をつくる作業をしてきたような気がします。
── 予見したい未来を
自分たちで書いてしまうようなオリジナル作品は、
魅力に乏しく見えるということでしょうか。
関 そう見えますね。
── ある意味での他者性、
自分と隔たっているような発想の仕方や
世界観をもった戯曲のほうが、
取り組み甲斐がある。
関 そうですね。
仮に、
僕が三島由紀夫という作家が好きだとして(笑)、
三島さんをめざすといったときに、
三島さんのような文体を書くのではなく、
三島さんが現代に生きていたらどんなことを思うかなとか、
そういうことを考えるほうが好きですね。
── 仮に、ということで三島由紀夫の名前が出ましたが、
オリジナルを書かずに演出をやる場合、
当然戯曲を選ぶ必要が出てきます。
多くのものを読んでこられた中で興味をもったもの、
あるいは今読んでおもしろいものなど、
色々な観点があると思いますが、
どんなふうに戯曲を選んでこられたんでしょうか。
関 戯曲を選ぶのがいちばん楽しいですね。
── ようやく、楽しいことがでてきました(笑)。
関 音楽の選曲と比べて話すと、
僕が演劇を始めた頃と今とでは、
選曲の手間が全く違うんですよ。
昔はCDのジャケットを見て
「これ買って大丈夫かな」とか、
スリルとともに選んでいた感覚があるんですけど、
今はYou Tubeで見られますからね、お金もかからずに。
なんとなくキーワードを打ち込んで、
それで出てきたものから選んでいくことができる。
で、戯曲を選ぶ場合、
未来がどうなるかわからないですけど、
まだ選ぶのに結構手間がかかるんですよ。
音楽は3分なら3分で聞けるけど、
戯曲は読むのも時間がかかるし、
また黙読と声を出して読むのと全然違うんですよね。
── 俳優と戯曲を読む、ということですね。
関 小説の場合は、
ほとんどが黙読の形で書かれてるかもしれませんが、
戯曲の場合、
俳優に「声を出して読んでみて」と言うと、
自分の黙読と全然イメージが違うことがある。
僕の選び方としては、
その戯曲をなんとなくやってみよう
と思うに至る出会いがあるんです。
悩んでるときにパッとそこに本があった、みたいな(笑)。
でも、自分が読んだときと俳優が読んだときに、
イメージのギャップがあるものを選んでいる
という感じですね。
そのほうが勝算が高いというか。
── 演出してうまくいくとか、
やりたいことがやりやすかったりする。
関 ええ。戯曲はまだ非常にアナログなものですよ。
── 関さんは時々戯曲じゃないもの、
たとえば小説などもとりあげますよね。
その場合も同じですか。
関 戯曲じゃないものをやるときには、
ストーリーに束縛されているところもあります。
たとえば、ある小説を読んだときに、
僕が考えたあらすじと、
他者が全然違うあらすじを言ったりするわけです。
そういう観点だと思います。
そのずれの楽しさ。
── いずれにしても、
最初の自分の捉え方とまわりが違うときに、
その作品を、演劇を通じて掘り下げたい
ということなんでしょうか。
関 そうですね。
── 逆に、テキストの作家性とか歴史性、
いわゆる文学史や演劇史的な意味づけは、
そんなに気になさらない。
関 作品をつくるヒントにはなりますけどね。
あと、怒られたくないとか(笑)。
── 予習というか、準備としては……
関 必要ですけどね。
── 作家性や、作品のテーマありきではなく、
基本的には戯曲の言葉を優先して選ぶ
ということでしょうか。
関 そうですね。
演劇史的なものというのは、これもひどい話で、
そこが演劇の魅力かもしれないですけど、
どんなにビデオとかが発達して、
100年前の芝居が映像で受け継がれていくとしても、
結局は「観てない」ということになる。
文学史的な部分の掘り下げは、
読んだことがあるかないか、
というところで済むんですけど、
演劇の場合は、
観たことがあるかないか、
という経験の差が大きいので、
文学史と演劇史はあまり一緒くたにはしないかな。
▪︎戯曲を読むときのずれ
── 戯曲を読むとき、
演出家と俳優、あるいは俳優同士の間では、
単に発声の仕方だけではなく、
その読み方は隔たるものですか。
演出をするときに、それをすり合わせたり、
違うなりに生かしていったり、
色々と方法があると思いますが。
関 あくまでも大体は、というところで言いますが、
うまくやろうとしますよね、俳優は。
でも、僕はうまくやられるとつまらないと思うので(笑)、
そこの隔たりは大きいですね。
── 俳優は、読む段階からある程度、
演じることが強く念頭にあると。
関 そうでしょうね。
── 関さんは、
俳優に演じさせたいのではないとすると……
関 普通に言葉が聞こえてくればいいんです。
人って、言葉をそんなに聞いてくれないと
勝手に悲観的に思ってるんですけど、
じーっと聞いてたって集中力はもたないし、
聞いてもらうための工夫が必要だと思うんです。
僕の作品は「異化効果」とか言われてますけど(笑)、
たとえば、
指を2本立てながら口では「3」って言ったほうが、
お客さんは「ああ、3なんだな」って思うんですよ、きっと。
「……2だろ!」みたいなつっこみが入るから、
「3」という数字は聞きやすいと思うんですよね。
この「2」を、わざわざ言葉でも「2」と言う必要はない。
逆にトゥーマッチで飽きちゃうことがある。
僕としては、せっかく演劇をやっているので、
俳優が発する声が聞こえてきたなと思えば、
ああいいなと思うんですが、
一方であまり聞こえ過ぎちゃうと、
うーんという感じがありますね。
── いわゆる名台詞を
名調子で読んだものがいいわけではない、
ということですか。
関 「ああ、名調子!」って思うだけですね。
── それは、観客に届かなかったり、
届いてるんだけど名調子で終わってしまう、
ということですか。
関 その名調子も、本当に名調子ならいいんですけど、
「名調子風」みたいなのはね(笑)。
── (笑)。
戯曲があると、
作家の名前や作品のストーリー性で観客を集めたり、
上演時間をもたせることがあると思うんですが、
対観客ということを考えたとき、
手持ちの材料――他者性の高い戯曲と俳優、
それから空間、音楽や照明を使いながら、
関さんが感じている
演劇の違和感なりおもしろさを
どのように観客に届けようとお考えですか。
関 僕がお客さんとして演劇を見るときに、
あまり説明されるのは嫌なんです。
「こういうふうに見てくれ」とか
「ここはこうだ」とか説明されるより、
全然わけわかんないけどイメージが広がってくるとか、
そういうものが好きなので、
たぶん僕も実作者として、
そんなにお客さんに説明はしてない……
もっと最低限の説明はしろよと思うんですが(笑)。
自分がこういう活動をやっていて、
それを楽しみに来てくれる人がいるとしても、
そんなに説明せずに、誤解も含めて、
色々想像していただくのが、自分としては楽しいですね。
▪︎アウトリーチと均質化
── 最近、演劇の見方や自分の演出スタイルのポイントを、
トークやワークショップで周知してから舞台を見せて、
自分の作品をよりよく理解させようという
アウトリーチ活動が流行っていますが、
そういう戦略に興味はありますか。
関 誰もやってなければ興味ありますけど、
やってる人が今はいらっしゃるので。
で、そのことが僕よりうまい人がたくさんいるので、
芝居の見せ方とか、演劇とは何かを説明することに
そんなに自信を持ってない、というのはありますね。
── 興味が持てないというより、自信が持てない。
関 そうですね。
人それぞれ、とかいう言葉は使いたくないですけど、
たとえば「俳優たち」というときに
俳優がみんな同じ顔に見えたり、
「政治家」というときに
共産党だろうが自民党だろうが、みんな同じ顔に見えたり、
「観客」というときに
みんな同じ顔に見えてしまったらつまらないので、
みんな違う顔のほうがおもしろい。
違う顔を見たいんです。
アウトリーチみたいなことって、
うまい人はうまくやられてると思いますが、
平均化させる作業にすごく近い気がして。
── 均質化された教え方によって観客が均質化され、
その成果もある程度均質になっていくという……
関 そういう前提になっちゃったら
いけないんじゃないかなということと、
やっぱり自信がなくて(笑)。
── 観客にどう示すか、みたいなことで言えば、
そもそも観客という集合概念はないと考えたほうが
おもしろい、ということなんですね。
関 はい。
── 関さんは、
「自分の作品は自分で評価できる、
なぜなら見ることができるから」
というお話をされましたが、
それは一観客として、という立場ではないですよね。
関 そうですね。
── 演出家としてということでしょうか。
自らつくっている作品において、
「自分」とはどのような存在ですか。
関 自分という個人に関しても、
色々な自分がいると思うんです。
それが出てくるか出てこないかというのがあって、
自分の評価をするときに
「1人の自分しか出てこないなあ」みたいな評価だったり、
あるいは「3人くらい出てきた!」
みたいなこともあるかもしれないじゃないですか。
だいたい1人なんですけど(笑)。
だから評価の仕方としては、
自分の中から何人出てくるのか、ということです。
きっと自分の中から多くの人間が出てくれば、
多くの人に見せたいと思うんじゃないでしょうか。
やっぱりどうしても僕だけ、とか思っちゃったら、
あんまりおもしろくない(笑)。
▪︎やっぱり犬がいい
── 今日は関さんの考える演劇について、
さまざまな角度から伺ってきました。
ここまでのお話からすると、
既成のもの、均質化されたもの、
予定調和的なものではなくて、
うまく言えないけれど不可解なものとか、
複数出てきちゃってバラバラなものを、
演劇を通して示したい、楽しみたい、
という感じになるんでしょうか。
関 「楽しみたい」という言葉が
正しいかどうかはわかりませんが、
僕だけじゃなくて多くの人が、
自分の異質感とか孤独感を感じていると思うので、
それは肯定したいと思ってるんです。
平均化させようという流れに対しては
「皆様どうぞご自由に」という気分ではありますね。
── 「これから演劇でやりたいことはどんなことですか?」
という質問をしたいと思っていたんですが……。
関 僕が17年、演劇をやってきて、
演劇界なり、演劇の感じが、
たぶんあまり変わってないんですよ。
もちろん、すごく変わったと言う人もいると思います。
科学の発展とか震災があったこととか時代の流れとか、
当たり前に変わってるでしょうけど、
僕の実感としては変わってない。
俳優がいて、戯曲があって、演出家がいて、
照明、美術があって……という演劇のつくり方とかは。
平田オリザさんの〈現代口語演劇〉が出てきたり、
日本の小劇場の人たちが海外に行ったり、
アウトリーチ活動によって社会的に認められたり、
色々な要素はあるんでしょうけれど、
もっと抜本的に……たとえば、
「演劇って、必ず犬が出るものだよね」
みたいな変化を体験したい、というのはありますね。
それは、
自分でやろうというわけではないのかもしれないし、
自分でやろうとも思いますけど。
── 「絶対に犬が出てくる」というのはおもしろいですね。
犬が出てこないと、なぜかみんな不安になる(笑)。
関 そうそう。
── そういうことは、
毎回、次の公演をやるときの
モチベーションのひとつになるんですか。
関 それはなりますね。
次は、三島さんの『熱帯樹』を
やろうと思っているんですが、
恵三郎というお父さんの配役を
誰にしようかなと考えるとき、
パッと浮かぶのは、犬ですからね。
ただ、ソフトバンクがあるので、
なかなか難しくて(笑)。
── 「影響されたの?」
なんて言われてしまうかもしれませんしね(笑)。
関 でも、犬がいいなあ……って。
▪︎出ない温泉を掘り続けたい
── 変わったこと、ひっくり返すようなことをやりたい、
というのは、具体的な話でもあるんですね。
それをふまえて、
関さんは、演出をする、演劇活動をすることに対して
使命感ってありますか。
というのも、僕自身も40歳になって
そんなことを考えるようにもなってきたので。
関 それは考えますよね。
ただ、僕を少なからず応援してくれる人がいる限り
やっていこうという使命感と、
世界平和のためにやっていこうという使命感があるとして、
その2つが
必ずしも一緒ではないような気がするんですが、
自分はどっちの使命感があるのか。
── もう少し、お聞きできますか。
関 演劇の場合、よく「やめる」とか「解散」とか
言う人がいるじゃないですか。
あれ、僕はわからなくて。
やりたいときにやればいいじゃんと思いますし、
「休む」ならわかるんですけど。
たとえば、
2カ月に1回のペースで公演するのはやめる、
とかいうことはありますけど、
続けていこうという使命感はあるので。
それが、3年に1回、5年に1回、10年に1回だろうが、
という気持ちはありますね。
さっき言った使命感というのは?
── 演劇でも同じようなことはあるかもしれませんが、
われわれの専門である文学研究の世界では、
ある研究方法が一時期流行って、
その後、廃れるということが、しばしば起こります。
でも、そうした流行り廃りとは別に、
その研究方法の重要性は確かにあって、
それゆえに流行りもしたのですが、
それが流行り廃りとして絶えちゃうのはまずい、
という思いがあって、続けている面もあります。
少なくとも、
そういう方法を受け継ぐような若い人が来るまでは
やっていたいという思いがあって。
別に誰からも頼まれてないし、
不要だから減ってるのかもしれないですけど。
そういう使命感ですね。
関 ああ、それはありますね。
流行に流される人というのはいるもので、
それはそれで構わないんですけど。
たとえば、温泉を掘るじゃないですか。
出るかわからないけど、温泉を掘ろうとするときに、
他所で温泉が出ると、今まで一緒に温泉を掘ってた人も、
そっちに行っちゃうんですよ。
でも、僕は出るかわからないものを
掘り続けることが好きなので、
出たらつまらないんです(笑)。
そういう人がいなきゃいけないだろうとは思っています。
みんなが出たところに行っちゃったら、
出した人と、それに群がる人たちみたいな、
非常に権力的な話になってしまうじゃないですか。
僕は、無駄かもしれないとわかっていても、
えっちらおっちら掘っていこうかなと思うんですが、
ただ、出るかわからないものを
一緒に掘ってくれる人は、なかなかいない。
それは実感としてありますね。
── 今のたとえは、すごくわかりやすいし、おもしろい。
温泉を出したい人と、
温泉を掘りたい人といるわけですよね。
出たら出たで、それはいいんですけど。
関 そういう使命感はありますよね。
俺は掘り続ける、みたいな。
── むしろ出るな、くらいの(笑)。
関 出たら使命感はなくなっちゃう。
まだ出してないんです、だから。
(第2回に続く)