▪︎学生演劇ではない演劇をめざす
── 関さんが主宰してきた三条会を中心に、
集団としての劇団のありかたについて伺います。
三条会は、千葉大学のサークルを母体として、
1997年に結成されました。
初期の三条会の、集団としてのありかたは、
大学のサークルに似ているというか、
ひとまずそれをスライドさせたような
形だったんでしょうか。
関 スライドはさせたんですが、
もともと自分が所属していた大学のサークルを
肯定的に捉えていたわけではなくて、要するに、
「学生演劇じゃない演劇をやりたいよね」
という人たちが集まったんです。
当時は20代でしたから、
たとえば、今の20代の演劇を僕が見るとして、
「これと学生演劇と何が違うんだろう?」
って思うものもあると思うんですが、
中にはそうじゃないものもある。
その差は何だろう? ってことは
旗上げのときにだいぶ考えましたね。
そのために三島由紀夫を選んだりして。
だって、ふつう大学の演劇サークルで台本決定するとき、
候補にあがらないですよ、三島さん。
── 圧倒的な違和感です(笑)。
関 そういうことではあったと思います。
── 三条会の1作目が、三島由紀夫の『熱帯樹』でした。
作品として違いを出していこうという方向性は、
戯曲の選び方に表れていたと思いますが、
集団の関係性についても
旗上げに際しての方針などはあったんですか。
関 僕が一番年上で、みんな僕の後輩たち
――おそらくは僕を慕ってくれてた
後輩たちだと思うんですけど、
自分も含めてまだ子供だったし、それを
「どういう大人になろうか」みたいなところから
考えて始めたんだと思います。
── それは、作品づくりのうえで
学生演劇との違いを出そうというところとも
共通する考え方ですね。
関 そうですね。
── 当初は稽古場というと……
関 大学の中でした。
── 独立はしたけれど、
空間的にはお世話になる形でやっていたと。
関 そこにいたほうが、
逆に「学生とは違うことをやる」ということを
やりやすかったんです。
目の前に「違う」対象があるわけですから。
▪︎千葉に三条会あり
── 三条会を旗上げして、
三島由紀夫を中心にさまざまな作品を上演していく中で、
最初の転機は、舞台芸術財団演劇人会議主催の
第2回利賀演出家コンクール(2001年)で
『ひかりごけ』(武田泰淳作)を上演して、
関さんが最優秀演出家賞を受賞したことかと思います。
その前後で、劇団内の関係性や
演出家に対する信頼などに、変化はありましたか。
関 僕より若い俳優の中には、
もっと楽になると考えた人はいたかもしれないですね。
でも僕は、賞をもらったからと言って、
自動的にお金が入ってくるとか、
そういうことにはならないと思ってました。
それがきっかけで
何かできることが生まれるかもしれないけど、
お金を稼ぐにしろ何にしろ
自分で何かしなきゃいけない。
僕はそこで一切バイトはやめたんですが、
ずっと貧乏なままですし、
そんなに甘くはないと思ってましたけどね。
── それでも、関さんの演出も含めて、
三条会の作品に対する評価としては、
劇団全体にはプラスの効果があったのではないでしょうか。
関 そうですね。
ただ、そのへんは一概によかったとばかりは
言えない部分もありますね。
若い時分にそういうことさえなければ、
もっと早くに
劇団を辞めてしまえた人がいるかもしれない。
僕は続けるつもりでいたからいいんだけど、
おかげでしばらく続けちゃった
という人もいたかもしれませんから。
── 大学のサークルから三条会を始めたときには、
関さんも含めて、ある程度の期間を
この劇団でやっていこうという考えだったんでしょうか。
それとも、そんなに先のことは
具体的には考えずにスタートしたんでしょうか。
関 具体的じゃなかったと思います。
運が良かったのか悪かったのかわからないですけど、
まったく戦略的なことはなかったです。
── (笑)。
関 ただ、誰もやってないようなことがやりたい
という気持ちはあったので、
とりあえず「千葉に三条会あり」という劇団を
つくってみようというプランはありました。
で、それが叶っちゃうのが、
すごく早かったというだけです。
── 早かったですか。
関 まわりにいなかったので、残念ながら(笑)。
もうちょっと時間がかかっていたら、
また違ったのかもしれないけど、
実感として、叶ったのは相当早かったですね。
── 自称だけではなく、周囲からも
「千葉の三条会」という見方が
2001年の受賞前後に確立していきます。
フェスティバルや海外公演も含めて、
2000年代前半にさまざまな展開がありましたが、
劇団内の関係は変わらず、
そのときどきの演出スタイルで
公演を重ねていくという感じでしたか。
関 たとえば、劇団員から
「また海外行きましょうよ」って言われたときに、
「え、そう?」って僕が言うとするじゃないですか。
「海外に行ったとなれば、親御さんにも……」
みたいな言い方をされたこともあったんですが、
そのことに僕自身は何の興味もなかった(笑)。
演劇的に、どうしても海外で何かをやりたいという
情熱が劇団員にあったら、
それを叶えるために何かするかもしれないですけど、
漠然と「海外に出たい、フェスティバルに出たい」
という人に対して、
何のために行くのかってことを
ちゃんと話し合う機会ではあったと思います。
── 海外公演は珍しかったとしても、
フェスティバルばやりの時期でしたね。
それ自体が、ある種の
〈演劇が盛り上がってる幻想〉というか。
関 そんなに売れてるわけではないにせよ、
僕自身、引っ張りだこ感はあったんですが、
千葉に戻って自分の劇団の公演をやれば
お客さんがちらほらちらほら……って状況なんです(笑)。
そういう状況が嫌で、
また海外に行ったりフェスティバルに出ると
ちやほやされますから、出たがる人がいるんですが、
現実を見て、目の前の「ちらほら」をどうにかしようよ、
みたいなことを話し合いたい気持ちはありました。
── 東京や海外でも活躍しながら、
千葉を拠点にアトリエを構えようと思ったのは、
いつ頃ですか。
関 僕が周囲のバックアップも受けながら、
海外公演やフェスティバルに出ていたのが
一通り終わったんです。
なので、呼ばれるんじゃなくて、
自分たちで何かをやりたかった。
もともと僕は、
千葉から東京に演劇を見に行っていたので、
千葉に拠点を持つときに
「東京の人を千葉に呼びたい、
逆のルートを自分がつくりたい」
という希望がありましたから、
それを実現する方法を考える場がほしくて、
アトリエをつくったんだと思います。
── 稽古場としてだけではなく、
人の流れや演劇界の関心の向き方を、
関東一円から東京に行く、東京をめざす、
といったものから転換させる仕掛け、
そういうコンセプトがあったと。
関 ありましたね、つくった当初は。
── そのプランが実現するまでは短かったんですか。
関 短いですね。
2005年にアトリエを持とうと思って、
その年に持ちましたから。
千葉は家賃が安いですし。
── 劇団員の中で合意形成は
スムースにいったんでしょうか。
関 はい。
東京だと結局、
稽古場として使える場所があるんですよね。
だけど、千葉では――僕らは大学で稽古してましたが――
公民館もあるんですけど、
そんなに演劇の稽古をやってる人もいないから、
稽古場を借りるときに色々面倒なんです。
前例があればいいんですけど、
演劇の稽古が初めての場が多くて、
飛び込みの営業に行くようなもの。
たぶん劇団員はそれが嫌なので(笑)、
持っちゃったほうが楽だって気持ちがあったから、
簡単に合意はとれたと思います。
── それは千葉の演劇状況、
演劇人口に裏打ちされたことですね。
関 ええ。他にないですからね、稽古場。
▪︎アトリエを構えた
── その後、実際にアトリエを持って、
作品づくりや集団内の人間関係など、
初期段階でのよかった点、
そうでなかった点を伺いたいんですが。
関 アトリエに来ること、
アトリエに来て創作活動をすることを、
義務感でなくやりたかったんですが、
どうしてもスケジュールに左右される感じでしか
できなかった反省はありますね。
それから、公演を目的にした稽古じゃないと、
稽古ができないということもありました。
── あれ、そうなんですか。
関 僕がアトリエに入ったら俳優が稽古してたとか、
そういうことはなかったですね。
僕が率先して
「稽古やるぞ」って形でやってきたんですけど、
目的としては、僕が言うんじゃなくて、
それぞれが自分で考えて
稽古をする場をつくりたかったんですが、
そういう場はつくれなかったな。
── 公演に向けて、大学や
どこかの場所を借りて稽古をするときは、
時間もお金も最小限に抑えなければいけない。
自前でアトリエを持つことの
大きなメリットのひとつは、
公演以外の稽古や体のトレーニングだと思うんですが、
アトリエを持つときに、話題にはならなかったんですか。
関 色々できるねって言って、色々やるんですよ。
やるんですけど、三日坊主とか、
僕が「その稽古どうなの? 何の役に立つの?」
とか言うと、そこでやめちゃったりね。
そんなレベルではあったのかなという気はしますね。
── アトリエを、アマチュアも含めて
他の劇団に貸すような話はあったんですか。
関 ほぼなかったに近いですね。
でも、貸さないってことは決めてました。
さっきも言ったような、
スケジュールに束縛されないことをやりたかったので。
── 「ここ埋まってるから」っていうと、それもできない。
関 ほんとうにスケジュールに束縛されちゃう。
いつでも行けばいいし、
いつでも稽古したければすればいいし、
っていうことだったと思うんですけどね。
── アトリエを持ったことで、
作品づくりや演出の方法、
方向性は何か変わりましたか。
関 ……ちょっと泣ける話になっちゃうけど、
僕はほんとうにあの場所が好きで、
愛していたと言っても過言ではないんです(笑)。
自分が愛する場所――愛とかいうと難しいし、
過保護にするわけでもないけど、
そういう「いつでも気にしてる場」を持ったことで、
自分の作品づくりも変わったんじゃないかな。
もともと、人に対してだけは
「あの人、いま元気かな」とか、
そういうところは相当強い人間なんですけど、
場所に対しても同じような思いを持つことになったのは
大きいですね。
── それが転じて俳優、劇団員への興味が増した、
ということともまた違うんでしょうか。
関 劇団員はですね、同じ場所をもつと、
劇団員の習慣とかが見えてきてしまって、
僕としては常に、
「君はいつも靴をそこ置くよね」とか
「あなたはそこに座るよね」とか、
そういうので飽きちゃうところがあって。
── 怒るとか迷惑というよりは、飽きちゃう。
関 飽きちゃいますねえ。
── 大学で演劇に興味を持った人間が集まって
劇団を始めたときに、
関さんが考える劇団のイメージがあったと思うんですが、
アトリエを持つことで、
ひとつの到達点が見えたのかどうか、
ということをお聞きしたいんですが。
関 口幅ったいですけど、最初は、
僕のことが好き、ということで集まったわけですよ。
でも僕としては、
僕のことが好きで集まった集団というのはつまらないよね
と思うので、その関係性を変えたかった。
アトリエを持って、
みんながアトリエという場を好きになって……
というところから始めようと考えてたんです。
さっき「俳優たちに飽きちゃって」と言いましたが、
俳優が僕に飽きても問題ないんですよ。
「飽きちゃって」なんて言うと
悪口みたいに聞こえちゃうけど、
飽きるのは当たり前だし、
好き嫌いの関係だけでやってると、
それがすべてになって崩壊してしまうので、
そうじゃないものをつくっていこうと思ってたんです。
でも僕の実感としては、俳優たちは
「関さんのことに興味がなくなった」ってなると、
急にやる気をなくしちゃう。
僕が興味をなくせば向こうも興味をなくしますから。
そこで「いや、でもアトリエに行こうよ」
とはならなかった感じがしますね。
── アトリエを持つことで、集団としての関係性を、
単純に人の好き嫌いといった興味から、
場を共有して演劇をつくる関係に移したいと、
関さん自身はお考えになってたんですね。
関 そうですね。
アトリエを持つ前は、とくに何も考えてなかったので、
この劇団は永遠に続くだろうとか
勝手に思ってたんですが、アトリエを持ったら、
つぶれるかもしれない、
やめる人もいるかもしれない、
劇団もなくなるかもしれない……
そういうことを考えるようになりましたね。
── 現実的になった、ということでしょうか。
関 僕は、ですけどね(笑)。
たぶん僕以外の人たちは、
そんなに現実的になってはいなかったと思いますけど。
▪︎アトリエ公演について
── 何度もアトリエ公演をされていますが、
公演を打つという使い方は
当初から決まっていたんでしょうか。
関 アトリエ公演、東京公演、野外公演という
3本柱は決めてました。
目的が「東京から千葉に人を呼ぼう」
ということだったので、
アトリエで変わった稽古や公演をやって、
野外はそれ自体が変わってるので、
あとは東京で千葉の劇団が来たという広報活動をして、
という形でしたね。
── そのひとつのコンセプトだった
「東京から千葉へ」というのは、
実際いかがでしたか。
関 僕がやらなければゼロだったわけですから、
それが何人かになった、
という効果はあったのかな。
でも、何回やっても
「遠いね、遠いね」とか言われるのは
嫌でしたね(笑)。
── 横浜なら行くのに(笑)。
関 そうですよ。
遠いのは僕のせいじゃないし、
と思ってましたけど(笑)。
── 東京公演や野外公演とは違って、
アトリエ公演はキャパシティの問題もあるし、
実験的なこともできたと思うんですけど、
収穫としてはいかがでしたか。
関 好きなことをやれましたね。
僕もきらわれるのは嫌なので
――評価は気にしないとか言っときながら
気にするんですけど、嫌なんです(笑)。
東京公演とか野外公演で不特定多数の他者に見せると、
色々と嫌な思いもするんですけど、
アトリエ公演に関しては、
どんなにつまらないと言われても
「だって好きで来てるんでしょ?」って心持ちでいたので、
好き勝手なことをやれました。
たとえば演劇史的なことに関しても、
歌舞伎の真似とか鈴木忠志さんの真似とか、
不特定多数に見せると色々あるじゃないですか(笑)。
だけどアトリエだと、
そういうことを気にしないで好きにできた。
秘匿性ってわけでもないですけど、
好き勝手できる場というのは、
勉強するうえですごく大事だと思うので、
それはよかったですね。
── ホーム感がある一方で、
客席と舞台が近いということでもあるし、
三条会をずっと見てきている人もいるわけで、
見方が厳しくなる面もあると思うんです。
そういうことを俳優がどう感じていたのか
……ということは俳優に聞いたほうがいいでしょうか。
関 僕の答えとしては、
当時7、8人俳優がいたとして、
7、8人が違う答えを持っていてほしいなと思うんですよ。
俳優が全員こう思ってたというんじゃなくて、
それぞれに、
アトリエと自分たちの演劇作品をつくるうえでの関係性の
よかった点と悪かった点を
持っていてくれたらよかったと思うんですが……。
やっぱりみんな部室感が強かったですね。
バイトのストレス発散みたいなところからは
抜け出せなかったかなというのが、
正直なところです。
── 演出家の関さんに話を戻すと、
アトリエである程度、いろんなことを試して、
それがアトリエ以外の公演の作品づくりに
生かせたという実感はありますか。
関 それはありますね。
たとえば、アトリエで暇だったときに
みんなで発声練習のゲームを
考えようということになったんですね。
煙草を1本立てて、
大きい声を出して倒せたもの勝ち
みたいなゲームをしたことがあって、
それをシェイクスピアの『冬物語』(2011年)とかで
使ったんですよ。
王妃のハーマイオニが死んだときに、
シチリア王のリオンディーズが
「あー!」って大声を出して
煙草を倒そうとするんですが、倒せないんですよ。
それがもの悲しいんですよね。
当初のゲームの使い方とは違うんですけど。
── なるほど。
関 自分は「王様」という権力を持っているにもかかわらず、
この声で煙草一本すらも倒せない人間なんだ、
ということを表現するために使う(笑)。
そういう小ネタのレベルではたくさんありましたね。
引き出しは増えました。
▪︎アトリエを閉めた
── そのアトリエを、
2014年に閉めることになったわけですが、
そこに至った経緯を伺えますか。
関 まずは経済的な理由ですね。
あと戦略的に、ここがもう使えないと思った。
それは単純に人数が減ったからです。
人数が減ることで経済的に回せなくなったんですが、
それよりも大事なのは、
たとえば10人いると、
この10人で何をやるかを考えられたし、
みんなが愛情を持ってアトリエに向き合ってた頃は、
僕の中でもどんどん企画が浮かんできたんです。
でも、人数が減っていき、
アトリエへの愛情が、
みんな他の雑多なことで稀薄になってきたときに、
僕の中で、企画が浮かんでこなくなるんです、
愛情があるのが3人だけとかってときには。
── そうですよね。
アイディアの部分も含めて、
やはり人数がいないとできないこともあるのでしょう。
関 劇団員の中にはアトリエの継続を反対する人もいたし、
だんだんそういうことになったんですが、
それを多数決で決めるのか、
あるいは「なんで反対なの?」とか説得するのか……
── アトリエを閉めようかという話題自体は、
いつ頃から出てたんですか。
関 始めて4、5年くらいの時期から出てましたね。
でも、とりあえず閉める理由もなかったので
続いてましたけど。
── 話題としては気にはなりつつも4、5年やってきて、
いよいよ閉めようということは、
先ほどの経済的、戦略的な理由にもつながる
劇団員数の減少がやはり……
関 決定的ですね。
そこで新しく入れる気にもならなかった
というのもありますけど。
でも、やめちゃった人のことを考えると、
もっと相談に乗ってもらいたかったですけどね。
みんな、やめるときはあまりにも急だったので。
── やめるときは、もうやめることが確定している。
関 そういうものなのかもしれませんけどね。
最初に1人やめたときから、
このサークルから始まった劇団がどう衰退していくのか、
観察してみようという気持ちがあったので、
その推移を見ている感じはおもしろかったですよ(笑)。
もちろん嫌ではあるんですけどね。
── 劇団員が減っていく中で、関さんご自身には、
集団の変化自体を客観視できる視線があったと。
集団として、あるいは劇団員としても、
しんどい空気になったのかなと思うんですが。
関 いえ、全然。
個人と集団とを考えたときに、
みんなが個人になっちゃってるだけなので、
とにかくみんなが「お金欲しい」って言い出すんです。
僕がお金をもらってるわけじゃないですよ。
「関さんがそんなにもらってるなら、そこから割り振れ」
って言われるならわかりますけど、僕ももらってない。
そこで「みんなに配れる予算をもらえるように、
みんなでなんとかしようか」ってことを
考えられるならいいんですけど、
そうじゃなくて、ただみんなで
「欲しい、欲しい」と言ってるわけです。
── ええ。
関 要は「団体」って概念がなくなっていくんですよね。
みんなが個人。
これを言うと誤解されるんですけど、
たとえば、俳優が
「僕がいいパフォーマンスをするために
これだけのお金をください」って言うなら、
僕は借金してでもそのお金をつくると思うんです。でも、
「すいません、家族を食わせなきゃいけないんで
お金をください」って言われても、
「なんであなたの家族のために借金して
金を払わなければいけないの?」って僕は思うんですよ。
だから、衰退していくというのは、
そういった演劇作品に対する価値観の差が
出てくることだと思うんです。
── 三条会自体が、近い年齢の俳優でスタートして、
みんな年をとり、いわゆる生活を背負っていく中で、
演劇(活動)の位置づけが
変わってきたということなんでしょうか。
関 そうですね。
── リアル過ぎてわかりやすいですね(笑)。
でも、それは断固止める理由にもならないでしょうね。
関 それから千葉というものに対しても、
僕がやることはやったかな、
みたいな感じになったということはあります。
── それは、
千葉という看板を必ずしも必要としなくなったのか、
あるいは千葉で関わるべきイベントや野外公演を
一通りやったということなんでしょうか。
関 一通りやって、
これから新たにやることを探そうと思ったときに、
千葉という場所のしがらみが
発生するようなものしか思いつかなかったので、
しがらみがない範囲で
やれることはやったかなということはありましたね。
▪︎無駄なことができるアトリエ
── ひとつの区切りとして、
アトリエを閉めるという決断をして
よかったことを伺いたいのですが。
関 いやー、肩の荷が軽いですね。
── それはアトリエ時代の後半に……
関 企画もないのに維持していかなければいけない状態が
しばらく続きましたから。
今は企画がなければ場所がなくていいよねって
シンプルな話なので、急に気が楽になりました。
── また三条会として、
あるいは集団の創作の場として、今一度、
アトリエを構えたいというお考えはありますか。
関 ありますね。
たとえば、旧アトリエを維持するときに、
僕と他の人たちが合わなかった部分として、
世の中には効率という考えがあって、
「こういうふうにこの場所を使えば
効率的ではないでしょうか」みたいな意見が
主流を占めてきちゃう感じがあるんですけど、
全然企画もなくて維持していた後期、
肩の荷は重かったですけど
楽しくてしょうがなかったんです。
人にも貸さないで金魚だけが泳いでたり(笑)、
なんて無駄なんだろうって。
それが僕には楽しくてしょうがなかった。
── なんか、贅沢ですね。
関 そういった、効率を度外視できる場所は
つくりたいと思います。
そうしないと、僕も効率に流されちゃう可能性が高いので、
そういう場があるからこそ、
「ああ、こんな無駄な場所を僕たちが持ってるなんて」
ってことを、集団で話したいという思いはあります。
── それは演出や作品をつくるうえでも「役に立つ」
――と言うと効率の話になっちゃいますけど、
何らかの栄養になるとお考えですか。
関 そうですね。
それこそ、みんなが忙しくなると、
稽古場に夜6時とか7時に集まって、
10時くらいまで稽古して
帰るような感じになっちゃうんですけど、
昼間から飲んでて、そこで
おもしろい話が出ることもあるわけじゃないですか。
稽古やるって言って、
1日稽古しないで終わることにも
意義があるかもしれないし、
忘年会やるって言ったのに、
なぜかずっと稽古してるっていうのもいいかもしれない。
そういったことが必要な気はします。
でも、なかなか勝てないです、
世の中の「現実」の説得力に。
ほんとうにみんな忙しいですね。
── それは、第1回のインタビューでお聞きした、
演劇を通して矛盾に向き合いたい
ということとも重なりますね。
関 そうですね。
ですから、無駄なことができる場所としての
アトリエがあれば、
まだまだ色々なことを考えられる気がしています。
(第3回につづく)