2015年

9月

09日

演劇を続ける。〈2〉

◇第2回 集団とアトリエ

▪︎学生演劇ではない演劇をめざす

 

── 関さんが主宰してきた三条会を中心に、

   集団としての劇団のありかたについて伺います。

   三条会は、千葉大学のサークルを母体として、

   1997年に結成されました。

   初期の三条会の、集団としてのありかたは、

   大学のサークルに似ているというか、

   ひとまずそれをスライドさせたような

   形だったんでしょうか。

 

関  スライドはさせたんですが、

   もともと自分が所属していた大学のサークルを

   肯定的に捉えていたわけではなくて、要するに、

   「学生演劇じゃない演劇をやりたいよね」

   という人たちが集まったんです。

   当時は20代でしたから、

   たとえば、今の20代の演劇を僕が見るとして、

   「これと学生演劇と何が違うんだろう?」

   って思うものもあると思うんですが、

   中にはそうじゃないものもある。

   その差は何だろう? ってことは

   旗上げのときにだいぶ考えましたね。

   そのために三島由紀夫を選んだりして。

   だって、ふつう大学の演劇サークルで台本決定するとき、

   候補にあがらないですよ、三島さん。

 

── 圧倒的な違和感です(笑)。

 

関  そういうことではあったと思います。

 

── 三条会の1作目が、三島由紀夫の『熱帯樹』でした。

   作品として違いを出していこうという方向性は、

   戯曲の選び方に表れていたと思いますが、

   集団の関係性についても

   旗上げに際しての方針などはあったんですか。

 

関  僕が一番年上で、みんな僕の後輩たち

   ――おそらくは僕を慕ってくれてた

   後輩たちだと思うんですけど、

   自分も含めてまだ子供だったし、それを

   「どういう大人になろうか」みたいなところから

   考えて始めたんだと思います。

 

── それは、作品づくりのうえで

   学生演劇との違いを出そうというところとも

   共通する考え方ですね。

 

関  そうですね。

 

── 当初は稽古場というと……

 

関  大学の中でした。

 

── 独立はしたけれど、

   空間的にはお世話になる形でやっていたと。

 

関  そこにいたほうが、

   逆に「学生とは違うことをやる」ということを

   やりやすかったんです。

   目の前に「違う」対象があるわけですから。

 

 

▪︎千葉に三条会あり

 

── 三条会を旗上げして、

   三島由紀夫を中心にさまざまな作品を上演していく中で、

   最初の転機は、舞台芸術財団演劇人会議主催の

   第2回利賀演出家コンクール(2001年)で

   『ひかりごけ』(武田泰淳作)を上演して、

   関さんが最優秀演出家賞を受賞したことかと思います。

   その前後で、劇団内の関係性や

   演出家に対する信頼などに、変化はありましたか。

 

関  僕より若い俳優の中には、

   もっと楽になると考えた人はいたかもしれないですね。

   でも僕は、賞をもらったからと言って、

   自動的にお金が入ってくるとか、

   そういうことにはならないと思ってました。

   それがきっかけで

   何かできることが生まれるかもしれないけど、

   お金を稼ぐにしろ何にしろ

   自分で何かしなきゃいけない。

   僕はそこで一切バイトはやめたんですが、

   ずっと貧乏なままですし、

   そんなに甘くはないと思ってましたけどね。

 

── それでも、関さんの演出も含めて、

   三条会の作品に対する評価としては、

   劇団全体にはプラスの効果があったのではないでしょうか。

 

関  そうですね。

   ただ、そのへんは一概によかったとばかりは

   言えない部分もありますね。

   若い時分にそういうことさえなければ、

   もっと早くに

   劇団を辞めてしまえた人がいるかもしれない。

   僕は続けるつもりでいたからいいんだけど、

   おかげでしばらく続けちゃった

   という人もいたかもしれませんから。

 

── 大学のサークルから三条会を始めたときには、

   関さんも含めて、ある程度の期間を

   この劇団でやっていこうという考えだったんでしょうか。

   それとも、そんなに先のことは

   具体的には考えずにスタートしたんでしょうか。

 

関  具体的じゃなかったと思います。

   運が良かったのか悪かったのかわからないですけど、

   まったく戦略的なことはなかったです。

 

── (笑)。

 

関  ただ、誰もやってないようなことがやりたい

   という気持ちはあったので、

   とりあえず「千葉に三条会あり」という劇団を

   つくってみようというプランはありました。

   で、それが叶っちゃうのが、

   すごく早かったというだけです。

 

── 早かったですか。

 

関  まわりにいなかったので、残念ながら(笑)。

   もうちょっと時間がかかっていたら、

   また違ったのかもしれないけど、

   実感として、叶ったのは相当早かったですね。

 

── 自称だけではなく、周囲からも

   「千葉の三条会」という見方が

   2001年の受賞前後に確立していきます。

   フェスティバルや海外公演も含めて、

   2000年代前半にさまざまな展開がありましたが、

   劇団内の関係は変わらず、

   そのときどきの演出スタイルで

   公演を重ねていくという感じでしたか。

 

関  たとえば、劇団員から

   「また海外行きましょうよ」って言われたときに、

   「え、そう?」って僕が言うとするじゃないですか。

   「海外に行ったとなれば、親御さんにも……」

   みたいな言い方をされたこともあったんですが、

   そのことに僕自身は何の興味もなかった(笑)。

   演劇的に、どうしても海外で何かをやりたいという

   情熱が劇団員にあったら、

   それを叶えるために何かするかもしれないですけど、

   漠然と「海外に出たい、フェスティバルに出たい」

   という人に対して、

   何のために行くのかってことを

   ちゃんと話し合う機会ではあったと思います。

 

── 海外公演は珍しかったとしても、

   フェスティバルばやりの時期でしたね。

   それ自体が、ある種の

   〈演劇が盛り上がってる幻想〉というか。

 

関  そんなに売れてるわけではないにせよ、

   僕自身、引っ張りだこ感はあったんですが、

   千葉に戻って自分の劇団の公演をやれば

   お客さんがちらほらちらほら……って状況なんです(笑)。

   そういう状況が嫌で、

   また海外に行ったりフェスティバルに出ると

   ちやほやされますから、出たがる人がいるんですが、

   現実を見て、目の前の「ちらほら」をどうにかしようよ、

   みたいなことを話し合いたい気持ちはありました。

 

── 東京や海外でも活躍しながら、

   千葉を拠点にアトリエを構えようと思ったのは、

   いつ頃ですか。

 

関  僕が周囲のバックアップも受けながら、

   海外公演やフェスティバルに出ていたのが

   一通り終わったんです。

   なので、呼ばれるんじゃなくて、

   自分たちで何かをやりたかった。

   もともと僕は、

   千葉から東京に演劇を見に行っていたので、

   千葉に拠点を持つときに

   「東京の人を千葉に呼びたい、

    逆のルートを自分がつくりたい」

   という希望がありましたから、

   それを実現する方法を考える場がほしくて、

   アトリエをつくったんだと思います。

 

── 稽古場としてだけではなく、

   人の流れや演劇界の関心の向き方を、

   関東一円から東京に行く、東京をめざす、

   といったものから転換させる仕掛け、

   そういうコンセプトがあったと。

 

関  ありましたね、つくった当初は。

 

── そのプランが実現するまでは短かったんですか。

 

関  短いですね。

   2005年にアトリエを持とうと思って、

   その年に持ちましたから。

   千葉は家賃が安いですし。

 

── 劇団員の中で合意形成は

   スムースにいったんでしょうか。

 

関  はい。

   東京だと結局、

   稽古場として使える場所があるんですよね。

   だけど、千葉では――僕らは大学で稽古してましたが――

   公民館もあるんですけど、

   そんなに演劇の稽古をやってる人もいないから、

   稽古場を借りるときに色々面倒なんです。

   前例があればいいんですけど、

   演劇の稽古が初めての場が多くて、

   飛び込みの営業に行くようなもの。

   たぶん劇団員はそれが嫌なので(笑)、

   持っちゃったほうが楽だって気持ちがあったから、

   簡単に合意はとれたと思います。

 

── それは千葉の演劇状況、

   演劇人口に裏打ちされたことですね。

 

関  ええ。他にないですからね、稽古場。

 

 

▪︎アトリエを構えた

 

── その後、実際にアトリエを持って、

   作品づくりや集団内の人間関係など、

   初期段階でのよかった点、

   そうでなかった点を伺いたいんですが。

 

関  アトリエに来ること、

   アトリエに来て創作活動をすることを、

   義務感でなくやりたかったんですが、

   どうしてもスケジュールに左右される感じでしか

   できなかった反省はありますね。

   それから、公演を目的にした稽古じゃないと、

   稽古ができないということもありました。

 

── あれ、そうなんですか。

 

関  僕がアトリエに入ったら俳優が稽古してたとか、

   そういうことはなかったですね。

   僕が率先して

   「稽古やるぞ」って形でやってきたんですけど、

   目的としては、僕が言うんじゃなくて、

   それぞれが自分で考えて

   稽古をする場をつくりたかったんですが、

   そういう場はつくれなかったな。

 

── 公演に向けて、大学や

   どこかの場所を借りて稽古をするときは、

   時間もお金も最小限に抑えなければいけない。

   自前でアトリエを持つことの

   大きなメリットのひとつは、

   公演以外の稽古や体のトレーニングだと思うんですが、

   アトリエを持つときに、話題にはならなかったんですか。

 

関  色々できるねって言って、色々やるんですよ。

   やるんですけど、三日坊主とか、

   僕が「その稽古どうなの? 何の役に立つの?」

   とか言うと、そこでやめちゃったりね。

   そんなレベルではあったのかなという気はしますね。

 

── アトリエを、アマチュアも含めて

   他の劇団に貸すような話はあったんですか。

 

関  ほぼなかったに近いですね。

   でも、貸さないってことは決めてました。

   さっきも言ったような、

   スケジュールに束縛されないことをやりたかったので。

 

── 「ここ埋まってるから」っていうと、それもできない。

 

関  ほんとうにスケジュールに束縛されちゃう。

   いつでも行けばいいし、

   いつでも稽古したければすればいいし、

   っていうことだったと思うんですけどね。

 

── アトリエを持ったことで、

   作品づくりや演出の方法、

   方向性は何か変わりましたか。

 

関  ……ちょっと泣ける話になっちゃうけど、

   僕はほんとうにあの場所が好きで、

   愛していたと言っても過言ではないんです(笑)。

   自分が愛する場所――愛とかいうと難しいし、

   過保護にするわけでもないけど、

   そういう「いつでも気にしてる場」を持ったことで、

   自分の作品づくりも変わったんじゃないかな。

   もともと、人に対してだけは

   「あの人、いま元気かな」とか、

   そういうところは相当強い人間なんですけど、

   場所に対しても同じような思いを持つことになったのは

   大きいですね。

 

── それが転じて俳優、劇団員への興味が増した、

   ということともまた違うんでしょうか。

 

関  劇団員はですね、同じ場所をもつと、

   劇団員の習慣とかが見えてきてしまって、

   僕としては常に、

   「君はいつも靴をそこ置くよね」とか

   「あなたはそこに座るよね」とか、

   そういうので飽きちゃうところがあって。

 

── 怒るとか迷惑というよりは、飽きちゃう。

 

関  飽きちゃいますねえ。

 

── 大学で演劇に興味を持った人間が集まって

   劇団を始めたときに、

   関さんが考える劇団のイメージがあったと思うんですが、

   アトリエを持つことで、

   ひとつの到達点が見えたのかどうか、

   ということをお聞きしたいんですが。

 

関  口幅ったいですけど、最初は、

   僕のことが好き、ということで集まったわけですよ。

   でも僕としては、

   僕のことが好きで集まった集団というのはつまらないよね

   と思うので、その関係性を変えたかった。

   アトリエを持って、

   みんながアトリエという場を好きになって……

   というところから始めようと考えてたんです。

   さっき「俳優たちに飽きちゃって」と言いましたが、

   俳優が僕に飽きても問題ないんですよ。

   「飽きちゃって」なんて言うと

   悪口みたいに聞こえちゃうけど、

   飽きるのは当たり前だし、

   好き嫌いの関係だけでやってると、

   それがすべてになって崩壊してしまうので、

   そうじゃないものをつくっていこうと思ってたんです。

   でも僕の実感としては、俳優たちは

   「関さんのことに興味がなくなった」ってなると、

   急にやる気をなくしちゃう。

   僕が興味をなくせば向こうも興味をなくしますから。

   そこで「いや、でもアトリエに行こうよ」

   とはならなかった感じがしますね。

 

── アトリエを持つことで、集団としての関係性を、

   単純に人の好き嫌いといった興味から、

   場を共有して演劇をつくる関係に移したいと、

   関さん自身はお考えになってたんですね。

 

関  そうですね。

   アトリエを持つ前は、とくに何も考えてなかったので、

   この劇団は永遠に続くだろうとか

   勝手に思ってたんですが、アトリエを持ったら、

   つぶれるかもしれない、

   やめる人もいるかもしれない、

   劇団もなくなるかもしれない……

   そういうことを考えるようになりましたね。

 

── 現実的になった、ということでしょうか。

 

関  僕は、ですけどね(笑)。

   たぶん僕以外の人たちは、

   そんなに現実的になってはいなかったと思いますけど。

 

 

▪︎アトリエ公演について

 

── 何度もアトリエ公演をされていますが、

   公演を打つという使い方は

   当初から決まっていたんでしょうか。

 

関  アトリエ公演、東京公演、野外公演という

   3本柱は決めてました。

   目的が「東京から千葉に人を呼ぼう」

   ということだったので、

   アトリエで変わった稽古や公演をやって、

   野外はそれ自体が変わってるので、

   あとは東京で千葉の劇団が来たという広報活動をして、

   という形でしたね。

 

── そのひとつのコンセプトだった

   「東京から千葉へ」というのは、

   実際いかがでしたか。

 

関  僕がやらなければゼロだったわけですから、

   それが何人かになった、

   という効果はあったのかな。

   でも、何回やっても

   「遠いね、遠いね」とか言われるのは

   嫌でしたね(笑)。

 

── 横浜なら行くのに(笑)。

 

関  そうですよ。

   遠いのは僕のせいじゃないし、

   と思ってましたけど(笑)。

 

── 東京公演や野外公演とは違って、

   アトリエ公演はキャパシティの問題もあるし、

   実験的なこともできたと思うんですけど、

   収穫としてはいかがでしたか。

 

関  好きなことをやれましたね。

   僕もきらわれるのは嫌なので

   ――評価は気にしないとか言っときながら

   気にするんですけど、嫌なんです(笑)。

   東京公演とか野外公演で不特定多数の他者に見せると、

   色々と嫌な思いもするんですけど、

   アトリエ公演に関しては、

   どんなにつまらないと言われても

   「だって好きで来てるんでしょ?」って心持ちでいたので、

   好き勝手なことをやれました。

   たとえば演劇史的なことに関しても、

   歌舞伎の真似とか鈴木忠志さんの真似とか、

   不特定多数に見せると色々あるじゃないですか(笑)。

   だけどアトリエだと、

   そういうことを気にしないで好きにできた。

   秘匿性ってわけでもないですけど、

   好き勝手できる場というのは、

   勉強するうえですごく大事だと思うので、

   それはよかったですね。

 

── ホーム感がある一方で、

   客席と舞台が近いということでもあるし、

   三条会をずっと見てきている人もいるわけで、

   見方が厳しくなる面もあると思うんです。

   そういうことを俳優がどう感じていたのか

   ……ということは俳優に聞いたほうがいいでしょうか。

 

関  僕の答えとしては、

   当時7、8人俳優がいたとして、

   7、8人が違う答えを持っていてほしいなと思うんですよ。

   俳優が全員こう思ってたというんじゃなくて、

   それぞれに、

   アトリエと自分たちの演劇作品をつくるうえでの関係性の

   よかった点と悪かった点を

   持っていてくれたらよかったと思うんですが……。

   やっぱりみんな部室感が強かったですね。

   バイトのストレス発散みたいなところからは

   抜け出せなかったかなというのが、

   正直なところです。

 

── 演出家の関さんに話を戻すと、

   アトリエである程度、いろんなことを試して、

   それがアトリエ以外の公演の作品づくりに

   生かせたという実感はありますか。

 

関  それはありますね。

   たとえば、アトリエで暇だったときに

   みんなで発声練習のゲームを

   考えようということになったんですね。

   煙草を1本立てて、

   大きい声を出して倒せたもの勝ち

   みたいなゲームをしたことがあって、

   それをシェイクスピアの『冬物語』(2011年)とかで

   使ったんですよ。

   王妃のハーマイオニが死んだときに、

   シチリア王のリオンディーズが

   「あー!」って大声を出して

   煙草を倒そうとするんですが、倒せないんですよ。

   それがもの悲しいんですよね。

   当初のゲームの使い方とは違うんですけど。

 

── なるほど。

 

関  自分は「王様」という権力を持っているにもかかわらず、

   この声で煙草一本すらも倒せない人間なんだ、

   ということを表現するために使う(笑)。

   そういう小ネタのレベルではたくさんありましたね。

   引き出しは増えました。

 

▪︎アトリエを閉めた

 

── そのアトリエを、

   2014年に閉めることになったわけですが、

   そこに至った経緯を伺えますか。

 

関  まずは経済的な理由ですね。

   あと戦略的に、ここがもう使えないと思った。

   それは単純に人数が減ったからです。

   人数が減ることで経済的に回せなくなったんですが、

   それよりも大事なのは、

   たとえば10人いると、

   この10人で何をやるかを考えられたし、

   みんなが愛情を持ってアトリエに向き合ってた頃は、

   僕の中でもどんどん企画が浮かんできたんです。

   でも、人数が減っていき、

   アトリエへの愛情が、

   みんな他の雑多なことで稀薄になってきたときに、

   僕の中で、企画が浮かんでこなくなるんです、

   愛情があるのが3人だけとかってときには。

 

── そうですよね。

   アイディアの部分も含めて、

   やはり人数がいないとできないこともあるのでしょう。

 

関  劇団員の中にはアトリエの継続を反対する人もいたし、

   だんだんそういうことになったんですが、

   それを多数決で決めるのか、

   あるいは「なんで反対なの?」とか説得するのか……

 

── アトリエを閉めようかという話題自体は、

   いつ頃から出てたんですか。

 

関  始めて4、5年くらいの時期から出てましたね。

   でも、とりあえず閉める理由もなかったので

   続いてましたけど。

 

── 話題としては気にはなりつつも4、5年やってきて、

   いよいよ閉めようということは、

   先ほどの経済的、戦略的な理由にもつながる

   劇団員数の減少がやはり……

 

関  決定的ですね。

   そこで新しく入れる気にもならなかった

   というのもありますけど。

   でも、やめちゃった人のことを考えると、

   もっと相談に乗ってもらいたかったですけどね。

   みんな、やめるときはあまりにも急だったので。

 

── やめるときは、もうやめることが確定している。

 

関  そういうものなのかもしれませんけどね。

   最初に1人やめたときから、

   このサークルから始まった劇団がどう衰退していくのか、

   観察してみようという気持ちがあったので、

   その推移を見ている感じはおもしろかったですよ(笑)。

   もちろん嫌ではあるんですけどね。

 

── 劇団員が減っていく中で、関さんご自身には、

   集団の変化自体を客観視できる視線があったと。

   集団として、あるいは劇団員としても、

   しんどい空気になったのかなと思うんですが。

 

関  いえ、全然。

   個人と集団とを考えたときに、

   みんなが個人になっちゃってるだけなので、

   とにかくみんなが「お金欲しい」って言い出すんです。

   僕がお金をもらってるわけじゃないですよ。

   「関さんがそんなにもらってるなら、そこから割り振れ」

   って言われるならわかりますけど、僕ももらってない。

   そこで「みんなに配れる予算をもらえるように、

   みんなでなんとかしようか」ってことを

   考えられるならいいんですけど、

   そうじゃなくて、ただみんなで

   「欲しい、欲しい」と言ってるわけです。

 

── ええ。

 

関  要は「団体」って概念がなくなっていくんですよね。

   みんなが個人。

   これを言うと誤解されるんですけど、

   たとえば、俳優が

   「僕がいいパフォーマンスをするために

   これだけのお金をください」って言うなら、

   僕は借金してでもそのお金をつくると思うんです。でも、

   「すいません、家族を食わせなきゃいけないんで

   お金をください」って言われても、

   「なんであなたの家族のために借金して

   金を払わなければいけないの?」って僕は思うんですよ。

   だから、衰退していくというのは、

   そういった演劇作品に対する価値観の差が

   出てくることだと思うんです。

 

── 三条会自体が、近い年齢の俳優でスタートして、

   みんな年をとり、いわゆる生活を背負っていく中で、

   演劇(活動)の位置づけが

   変わってきたということなんでしょうか。

 

関  そうですね。

 

── リアル過ぎてわかりやすいですね(笑)。

   でも、それは断固止める理由にもならないでしょうね。

 

関  それから千葉というものに対しても、

   僕がやることはやったかな、

   みたいな感じになったということはあります。

 

── それは、

   千葉という看板を必ずしも必要としなくなったのか、

   あるいは千葉で関わるべきイベントや野外公演を

   一通りやったということなんでしょうか。

 

関  一通りやって、

   これから新たにやることを探そうと思ったときに、

   千葉という場所のしがらみが

   発生するようなものしか思いつかなかったので、

   しがらみがない範囲で

   やれることはやったかなということはありましたね。

 

 

▪︎無駄なことができるアトリエ

 

── ひとつの区切りとして、

   アトリエを閉めるという決断をして

   よかったことを伺いたいのですが。

 

関  いやー、肩の荷が軽いですね。

 

── それはアトリエ時代の後半に……

 

関  企画もないのに維持していかなければいけない状態が

   しばらく続きましたから。

   今は企画がなければ場所がなくていいよねって

   シンプルな話なので、急に気が楽になりました。

 

── また三条会として、

   あるいは集団の創作の場として、今一度、

   アトリエを構えたいというお考えはありますか。

 

関  ありますね。

   たとえば、旧アトリエを維持するときに、

   僕と他の人たちが合わなかった部分として、

   世の中には効率という考えがあって、

   「こういうふうにこの場所を使えば

   効率的ではないでしょうか」みたいな意見が

   主流を占めてきちゃう感じがあるんですけど、

   全然企画もなくて維持していた後期、

   肩の荷は重かったですけど

   楽しくてしょうがなかったんです。

   人にも貸さないで金魚だけが泳いでたり(笑)、

   なんて無駄なんだろうって。

   それが僕には楽しくてしょうがなかった。

 

── なんか、贅沢ですね。

 

関  そういった、効率を度外視できる場所は

   つくりたいと思います。

   そうしないと、僕も効率に流されちゃう可能性が高いので、

   そういう場があるからこそ、

   「ああ、こんな無駄な場所を僕たちが持ってるなんて」

   ってことを、集団で話したいという思いはあります。

 

── それは演出や作品をつくるうえでも「役に立つ」

   ――と言うと効率の話になっちゃいますけど、

   何らかの栄養になるとお考えですか。

 

関  そうですね。

   それこそ、みんなが忙しくなると、

   稽古場に夜6時とか7時に集まって、

   10時くらいまで稽古して

   帰るような感じになっちゃうんですけど、

   昼間から飲んでて、そこで

   おもしろい話が出ることもあるわけじゃないですか。

   稽古やるって言って、

   1日稽古しないで終わることにも

   意義があるかもしれないし、

   忘年会やるって言ったのに、

   なぜかずっと稽古してるっていうのもいいかもしれない。

   そういったことが必要な気はします。

   でも、なかなか勝てないです、

   世の中の「現実」の説得力に。

   ほんとうにみんな忙しいですね。

 

── それは、第1回のインタビューでお聞きした、

   演劇を通して矛盾に向き合いたい

   ということとも重なりますね。

 

関  そうですね。

   ですから、無駄なことができる場所としての

   アトリエがあれば、

   まだまだ色々なことを考えられる気がしています。

 

 

 

第3回につづく