2015年

9月

09日

演劇を続ける。〈3〉

◇第3回:三島由紀夫・角川映画・『熱帯樹』


▪︎角川映画が好きだった


―― 関美能留さんは、1997年に

三島由紀夫の『熱帯樹』で三条会を旗揚げされて以来、

これまで多くの三島作品を演出してこられました。

今年9月には、

下北沢のザ・スズナリで約18年ぶりとなる

『熱帯樹』公演が予定されています。

そこで関さんに、

三島由紀夫あるいは『熱帯樹』について伺いたいと思います。そもそも「三条会」という劇団名が、

三島由紀夫に由来するそうですね。

 

  最初、この劇団が続くかどうかも

わからないまま始めたんですが、

ちょっと変わったことをやろうとは思っていて、

まず三島さんの『熱帯樹』をやることが決まったんです。

その後に「劇団名も必要だよね」という話になりまして。

 

―― そんな順番なんですか(笑)。

 

  はい。で、せっかく三島由紀夫の作品をやるので、

劇団名も「三島由紀夫を上演する会」にしようかと。

そこから「三条会」

――「ジョウ」の字は違いますけど――になった。

そういう流れですね。

 

―― 順番もユニークですが、

大学の仲間同士で演劇をはじめるとき、

作品選びの段階でなかなか三島由紀夫、

さらに『熱帯樹』は候補にはならないのではないか

と思うんです。

そのあたりはどんな経緯だったんですか。

 

  僕、角川映画が好きだったんです(笑)。

 

――  なつかしい響きですね。

 

  角川映画って

「読んでから見るか、見てから読むか。」

みたいなキャッチコピーで、

メディア・ミックスのはしりというか、

文庫を映画化して両方売っていく戦略だった。

そういうことをやりたいと思って、

千葉にある町の本屋さんへ行ったとき、

新潮文庫の『熱帯樹』(※現在絶版)を見つけたんです。

そのことを、最近思い出しました(笑)。

 

―― 映画ではなくて演劇でやってみたい、と。

 

  一応、演劇をやってましたから(笑)。

で、とりあえず小説をシナリオ化するのは大変なので、

最初から戯曲のほうがいいな、と。

 

―― 演出家としての関さんが、

めぐり合わせの中で『熱帯樹』に出会い、

そこから劇団の旗揚げで『熱帯樹』をやろうといったとき、

すぐに劇団員の同意は得られたんでしょうか。

 

  当時、僕は25歳だったんですが、

25歳で大学に出入りしている演劇部のOBなんてのは、

今じゃ考えられないくらい偉いので(笑)、

その決定に関しては全然問題なかったと思います。

彼らがどう思ったかはわからないですけど。

 

―― 演出家がおもしろそうだと持ってきた作品に対して、

わかった、やってみようという流れですね。

 

  今だと、僕も大人になっちゃったんで、

相談したりもしますけど、

学生の延長だった頃は、

けっこう強権を発動していたかもしれません。

 

―― でも、やはり誰かが決めないことには、

そういうセレクションにはなりませんよね(笑)。

角川映画にインスパイアされたときには

『熱帯樹』を読んだことはあったんですか。

 

  いえ、読んでないですね。

『サド侯爵夫人』とか『近代能楽集』は読んでましたが、

読んだことがあるものをやるのはつまらないというのが、

自分の中であったので。

 

―― 売れてない本をとりあげるのが角川映画ですからね(笑)。

 

  自分自身でも

「読んでから稽古するか、稽古してから読むか」

みたいな(笑)。

 

―― 三島なり、三島の戯曲はいくつか知っているけれども、

まだふれたことがないもので演劇をつくってみたかった、

ということですね。

 

  そうだったと思います。

 

 

▪︎三島由紀夫の「気合い」

 

―― 演出家として活動する上で、

あるいはその前段階でもいいのですが、

関さんにとって三島由紀夫は、

まず「人」としてどんな印象をお持ちでしたか。

 

  僕は「有名な人」ってことで捉えてますね。

まわりからは

「三島由紀夫をやるなんて変わってるね」

とか言われることが多いんです。

でも、日本で有数の、戯曲を書く有名な人ですよね。

そういう矛盾はいつも感じますが、

やっぱり非常にポピュラリティがあると思いますよ。

 

―― そして、「戯曲を書いた人」という設定もある。

 

  そうですね。

 

―― 本屋で文庫本が売られるほどの有名な人は少ないにせよ、

劇作家はたくさんいて、

たとえば安部公房のような小説家よりの劇作家もいる中で、

関さんは、三島のカラーというか、おもしろさを、

どんなところにみていたんですか。

 

  若い頃、ともかく誰の全集でもいいから

全部読まなきゃいけないと思っていた時期があったんです。

 

―― 具体的にはいつ頃ですか。

 

  それこそ、『熱帯樹』をやろうとした頃ですね。

せっかくだから、

三島さんの書いたものは全部読もうと思って、

全部読んだんです。

で、それだけで終わりにしないで、

三島さんが30歳で書いたものを

自分が30歳のときに読もうとか、

自分が齢をとるのと同じくらいのタイミングで読み返す、

みたいなこともやっているんです。

今なら43歳なので『癩王のテラス』あたりですね。まあ、45歳をこえたらなくなっちゃうんですけど(笑)。

 

―― なるほど。

 

  そういうことをやっているときに感じたのが、

なんて言えばいいのかな、

僕なんかには到底及びもつかない……

「気合い」?(笑)

 

―― 「気合い」ですか(笑)。

 

  そういうものがあるんです、彼の人生の中に。

その「気合い」に興味があるのかな、きっと。

 

―― それは文字から浮かび上がってくるような、

醸し出されてくるようなものですよね。

 

  ええ。

なので、三島さんをやるにあたっては、

「生半可じゃできないよな」って気持ちと、

「すみません、生半可ですけどやっていいですか?」

って気持ちと、常に両方を抱ながらやっています。

 

―― 劇作家として優れている、

ということだけではないのかもしれませんが、

圧倒的な何かを感じていて、

作品を読み直すことや演劇をつくることの中で、

それに対峙していく。

そういう存在でもあるということでしょうか。

 

  そうですね。

 

―― その「気合い」というのは、作品自体やそれが書かれた時期、

あるいは関さんがお読みになったり上演する時期で

変わって感じられるものなんですか。

 

  うーん……。

彼の最期に対して

あこがれを持っているわけではないですし、

それを良いか悪いかの判断も僕にはできないですけど、

彼は1人ではなくて、複数で死んでいるんですよね。

そのことには、少し興味があります。

あれが1人だったらそんなに興味はないんですけど。

演劇も一応、複数でつくるものなので。

 

―― なるほど。

 

  現実が虚構だったのか、

虚構が現実なのかもわからないですし、

あの最期だけを抜きだすと

危ないことになっちゃうんだけど、

三島さんの人生そのものが

非常に演劇的だと思うことはあって、

そのことには興味があるのかな。

 

―― 切腹をした、という行為ではなくて、

最後の大々的なパフォーマンスが複数人によるもので、

非常に「演劇的」に見えた。

そのあたりに、

先ほどおっしゃった「気合い」と通ずる何かがありそうだ、

ということでしょうか。

 

  そうですね。

 

 

▪︎三島由紀夫の言葉を読む

 

―― 三島の作品について伺いたいのですが、

たとえば、先ほどの「気合い」を感じる度合いは、

小説と戯曲を比較したときに違いはありますか。

 

  三島さんの作品から感じられるものは、

小説も戯曲も一緒ですね(笑)。

『熱帯樹』だったら5人の役がありますけど、みんな一緒。

 

―― 5人の登場人物ですら一緒、

そういう読み方をしているということですね。

一方で、今の見解に反するようですが、

三島の場合、一般的には小説よりも戯曲、

特に劇言語の評価が高い印象があります。

重ねての質問になりますが、戯曲でも小説でも、

三島作品について質的な違いは感じていらっしゃらない?

 

  そうですね。

たとえば、

よく「僕は子供の頃、こういう夢を見たんだ、

船が庭の中へ入ってくる……」

みたいなことが書かれるんです。

また海から船が来ちゃったよ、

とか、

また帆船に鳥が止まっちゃったか、

みたいな(笑)。

 

―― ジャンルや作品単体よりも、三島の書いた言葉の集合

──ミシマ・ワールドに興味があるというほうが近いですか。

 

  たとえるなら、B’zみたいな感じかな(笑)。

どの曲もテンションが常に高くて、

似たような印象も受けるけど、

それはでもB’zとしか言えない音楽ですし、

やっぱりポップですよね。

 

―― アーティストとしても、

曲としても、曲の中でも、

とにかくB’zらしいということですね。

そう言われると、次に聞くことがなくなっちゃう(笑)。

 

  (笑)。

 

―― あと、

世評としては「三島の戯曲は言葉が立っている」

という独特な言い回しで評価されますが、

上演したときの印象として、

関さんはどうお感じになっていますか。

 

  言葉は立ってるんですけど、あまりにも長い。

上演した場合、これだけ長い時間、

その立った言葉を聞ける土壌は

今はなかなかない気がします。

書いてあることが退屈と言っているんじゃなくて、

立っている言葉を3時間くらい聞き続けるとしたら、

眠くなっちゃいますよね(笑)。

 

―― たとえば『近代能楽集』は、立っている言葉のよさが

うまく作品になっているようにも思えますが……

 

  『近代能楽集』は、

お客さんとして見る限りかもしれないですけど、

ストーリーの単純さと時間的な長さが、

そんなに不釣り合いじゃないんです。

でも『熱帯樹』とか『サド侯爵夫人』だと、

不釣り合いに感じますね。

 

―― 『熱帯樹』だって、

普通に上演したら3時間くらいかかりますよね。

 

  僕が何時間でやるかわからないですけど(笑)、

ストーリーだけなら、

3行であらすじを書けると思いますので。

 

―― そうすると、あの絢爛、あるいは論理的な言葉が、

過剰に連なっているように見えているわけですね。

 

  はい。

 

―― 演出や俳優の要素も含めて、たとえば、

平田オリザさんの「現代口語演劇」のようなものと、

三島戯曲のように、

ある意味で過剰な豊饒さに満ちた言葉を語ることは、

違う作業でしょうか。

 

  それは違うと思いますよ。

三島さんの場合、

情景描写にしてもイメージの羅列がいっぱいあって、

そこに見えているイメージ以外の描写を

演出がすればいいのか、

あるいはイメージ通りのことをすればいいのか、

これだけ過剰に書かれていると、

僕はそこの選択で迷うんですよ。

せっかく書かれてるんだから、

これだけやればいいんじゃない?

ってこともあるかもしれないし、

もしかしたら「これはコップだ」というだけの言葉に

隠された別のイメージがあるかもしれない。

 

―― 演出する上で、戯曲の読み方、

捉え方も変わってくるということですね。

イメージが多く、

かつ裏のイメージも想定される三島作品には、

それゆえのやりにくさやおもしろさはあるんでしょうか。

 

  たとえば、平田オリザさんの戯曲で

「死」について扱っているものがあって、

三島由紀夫さんの戯曲で

「死」について扱っているものがある。

それぞれにやり方があると思うんですが、

三島さんの場合、言葉のイメージが過剰で

「死」そのものがどこかへ行っちゃうんですよ(笑)。

だからそこを押さえつつ、という作業が必要になってきます。

 

―― 制御するポイントが増えるということでしょうか。

 

  そういう気がします。

ある意味では、どちらも一緒なんですけど。

 

―― 本題がどこかへ行っちゃう、

かえって見えにくくなっちゃう。

でも、それは見えてなければまずいわけですね。

 

  読んでいておもしろいと思うのは、

いろいろな情景描写があって、

たとえば「コップ」に対してものすごく修飾をする一方で、

『熱帯樹』の恵三郎が「俺の心がわからないのか!」

みたいなせりふを言うとき、

その「心」には何の修飾もなかったりするんです。

 

―― 意味的な重要性と言葉の量がアンバランスですね。

 

  もちろん「心」を修飾するのに、

ものすごい量の修飾をする場合もありますけど、

そんなに修飾できる自分の「心」なんて

嘘かもしれないし、

「俺の心がわからないのか!」って叫ぶ「心」のほうが

本当っぽく見えたりもする。

それは規則性があるわけではないので、

そのつど読んだり考えたりしなければいけないですね。

 

 

▪︎『熱帯樹』を上演する

 

―― すでに具体例も出てきていますが、

今回『熱帯樹』を上演するにあたって、

作品自体への興味ですとか、

旗揚げ公演で初演された作品を、

いま上演することのねらいを伺ってみたいと思います。

 

  初演は僕が25歳のときなので、

恥ずかしくて(笑)。……恥ずかしいなんて言うと、

じゃあ、

今やってることはどうなのかって話になるんですけど。

結局演劇のよさって、戯曲は残っていきますが、

上演は残っていかないということでもあると思うんです。

だから、というわけでもないけど、

初演がどうだったか、覚えてなくて(笑)。

 

―― でも、お客さんの中には、

初演を観た人がいるかもしれませんね。

 

  確実にいるんですよ。

そういう方に「観ました」なんて言われたら……

困っちゃいますね(笑)。

 

―― 改訂や修正というより、新作として、

いま持っている技術やアイディアによって

ゼロからつくるというほうが近いんでしょうか。

 

  近いですし、25歳のときには、

演劇をつくるプロセスの中で、

僕自身、未知のものと出会う作業があったんです。

でもだんだん齢をとると

「この音楽に感動しちゃったから使ってみたいな」

というようなことが非常に少なくなってきた。

たとえば、緒形拳が主演した

三島さんの映画(※『Mishima: A Life in Four Chapters1985

の音楽をフィリップ・グラスが担当していて、

非常にミニマルなんです。

1997年にそれを聞いたときは

「このくり返しがグッとくる」みたいな感覚があって

新鮮だったんですが、

今だと、ふつうにくり返しの音楽を出されたら

「ふーん」って感じですもん。

 

―― かつては斬新さを感じとっていたものが、

いまはただのくり返しとしか見えない。

 

  このくり返しがこうなるのは知ってるし、みたいな。

あと角川映画の『Wの悲劇』(1984)は、

メタ構造になっていておもしろくて、

当時は感銘を受けたんです。

でも、この10何年、

僕はメタ構造の芝居をバリバリつくってる(笑)。

そこから離れたいと思っていても、

結局また戻っちゃったりするわけですよ。

 

―― そうであるならば、そうした感覚の変化もふまえて、

なぜ今『熱帯樹』なのか、改めて伺えますか。

 

  自分の問題が大きいのかもしれません。

1997年に三条会を旗揚げして、

その旗揚げ公演で『熱帯樹』をどう上演したのかを

すっかり忘れているわけです。

そのことに、とりあえず向き合ってみようかと(笑)。

初心に返るみたいな感じですね。

 

―― すでに俳優と本読みをはじめているとのことですが、

俳優の読み方と、

演出家としての関さんが読んだアイディアや方向性と、

当初はくいちがったりするんですか。

 

  初演と今回の違いとして、

初演の頃は、25歳くらいの若者が集まって、

この家族の話をつくったんですね。

今回は40歳くらいから23歳くらいまで、

一応、家族っぽい役の幅でつくっているので、

同世代だけで読む感じとは何かしら差が出るだろう……

と思いきや、そんなに出てこない(笑)。

そこですかね。自分の想定とずれているのは。

 

―― 三島の言葉の規制力が強いということでしょうか。

 

  ポップなんじゃないですかね、やっぱり。

 

―― 誰が読んでも同じように受け入れられちゃう。

 

  だと思いますよ。

単純な話、

あんまりポピュラリティのない戯曲を

若い子と年上の人が一緒に読むと、

読めない漢字に差が出たりするんです。

でも『熱帯樹』みたいなものは、

みんな読めますね。

で、読めない漢字はみんな一緒だったりする。

世代差はあまり出ないですね。

 

―― 『熱帯樹』が家族の劇で、

そこに年齢差や性差があることに関していえば、

演出プランとしては違いが見えたほうがいいですよね。

 

  そうですね。

だけど、迷うことも多くて。

この作品は、兄と妹の近親相姦を扱っているんですが、

演劇表現として、たとえば、

若い子を2人キャスティングして

セックスシーンをつくっても、

それはただの若い子2人のセックスシーンになっちゃって、

観る側としては近親相姦にはならない。

その2つは全然別だと思うので、

そこを演劇でどうすればいいかということは考えています。

 

―― 舞台上でできる物理的表現が、

近親相姦も普通のセックスシーンも似てしまうので、

劇全体であったり、何かしらの近親相姦らしさを

観客に見せる仕掛けを入れていく必要がある

ということですか。

 

  そうなんですよ。

場所の問題を考えても、

昔の家ってそんなに大きかったんですかね。

これは一軒家の話で、みんな一緒に住んでて……

でも、みんな大声でしゃべってる印象なんですけど(笑)。

 

―― 家中で、それぞれが秘密の話をしています。

 

  でも、一軒家(笑)。

近親相姦にしても「いやいや、みんな家にいるって」と。

たとえば「両親が出かけていないから……」

みたいな状況ならわかりますけど、

普通にいますからね(笑)。

そういう気になる箇所を、

今はピックアップしているところです。

 

―― 鍵になりそうなポイントはありますか。

 

  ええと……三島さんの戯曲って

「私」が「わたし」なのか「わたくし」なのか、

まずわからないんですよ。

どっちで読むかで、全然雰囲気が変わりますからね。

いまはまだ、そこで稽古が止まっています(笑)。

 

―― 家族構成を考えると、ちょっとお金があって、

上流階級のこじらせたお嬢さんみたいな雰囲気もあるので、

「わたくし」と読んだほうがなじみそうな感じもしますね。

 

  役に関していえば、

たとえば、

勇はマザコンで弱々しいような第一印象はありますけど、

両親が強いじゃないですか(笑)。

遺伝子は受け継いでいるわけだから、

この2人からそんなに弱い子は生まれないんじゃないか、

本来は強いんじゃないか、

みたいなことは思います。

 

―― 逆でもいいわけですよね。

両親が虚勢を張っているという読み方でもいい。

性格を固定して読むと楽だし、

わかりやすいですけど、

そのあたりを丁寧に読んでいきたいということでしょうか。

 

  ええ。

ほとんど家の中の話で、

外の世界が描かれていないのもおもしろいですし。

 

 

▪︎垢が落ちてすっきり

 

  それから、タイトルも非常にいいですよね(笑)。

 

―― いいですね。

熱帯樹とか空想とか心とか、いくらでも肥大化し、

悪さをするけど、実体としては不確かです。

その一方、現実に死んでいく鳥や病んでいく妹もいて、

その組み合わせがおもしろい。

 

  僕もそうですけど、みんな生きている限りは、

いろいろな「垢」みたいものがついていると思うんです。

でも、『熱帯樹』の上演を通じて、

これだけ過剰にいろいろな言葉をぶつけられたら、

俳優もお客さんも「垢が落ちてすっきり!」

みたいな感じになったらいいなと(笑)。

 

―― 「垢」というのは、まさに『熱帯樹』の絢爛な言葉、

ある種の余剰みたいなものでしょうか。

それ自体として存在してはいるものの、

そんなに意味を担ってはいないもの?

 

  そうなんですよ。

たとえば、今ここで「三島言葉ごっこ」をしようか、

みたいなことって、できないですから。

やっぱり使っちゃいけない言葉って、

日常では使うようにできていて、

逆に……この「逆に」みたいな言葉は、

三島さんは絶対に使わないですし。

 

―― たしかに、そういう無駄はないですね。

 

  でも、それに代わる無駄がたくさんある。

僕らの生きている日常も無駄だらけで、

この作品も無駄だらけ。

僕は無駄が大好きなんですけど、

垢を以て垢を制すというか、

無駄と無駄がぶつかるとどうなっちゃうんだろう、

みたいな感じになればいいなと。

 

―― 戯曲の中に何タイプかの「無駄」があって、

それを何らかの形で上演してみたときに、

お客さんのほうも……

 

  「すっきり!」みたいな。

まあ、いちばん大事なのは、

僕は角川映画が好きだったということです(笑)。

 

2015531日@池袋)