▪︎角川映画が好きだった
―― 関美能留さんは、1997年に
三島由紀夫の『熱帯樹』で三条会を旗揚げされて以来、
これまで多くの三島作品を演出してこられました。
今年9月には、
下北沢のザ・スズナリで約18年ぶりとなる
『熱帯樹』公演が予定されています。
そこで関さんに、
三島由紀夫あるいは『熱帯樹』について伺いたいと思います。そもそも「三条会」という劇団名が、
三島由紀夫に由来するそうですね。
関 最初、この劇団が続くかどうかも
わからないまま始めたんですが、
ちょっと変わったことをやろうとは思っていて、
まず三島さんの『熱帯樹』をやることが決まったんです。
その後に「劇団名も必要だよね」という話になりまして。
―― そんな順番なんですか(笑)。
関 はい。で、せっかく三島由紀夫の作品をやるので、
劇団名も「三島由紀夫を上演する会」にしようかと。
そこから「三条会」
――「ジョウ」の字は違いますけど――になった。
そういう流れですね。
―― 順番もユニークですが、
大学の仲間同士で演劇をはじめるとき、
作品選びの段階でなかなか三島由紀夫、
さらに『熱帯樹』は候補にはならないのではないか
と思うんです。
そのあたりはどんな経緯だったんですか。
関 僕、角川映画が好きだったんです(笑)。
―― なつかしい響きですね。
関 角川映画って
「読んでから見るか、見てから読むか。」
みたいなキャッチコピーで、
メディア・ミックスのはしりというか、
文庫を映画化して両方売っていく戦略だった。
そういうことをやりたいと思って、
千葉にある町の本屋さんへ行ったとき、
新潮文庫の『熱帯樹』(※現在絶版)を見つけたんです。
そのことを、最近思い出しました(笑)。
―― 映画ではなくて演劇でやってみたい、と。
関 一応、演劇をやってましたから(笑)。
で、とりあえず小説をシナリオ化するのは大変なので、
最初から戯曲のほうがいいな、と。
―― 演出家としての関さんが、
めぐり合わせの中で『熱帯樹』に出会い、
そこから劇団の旗揚げで『熱帯樹』をやろうといったとき、
すぐに劇団員の同意は得られたんでしょうか。
関 当時、僕は25歳だったんですが、
25歳で大学に出入りしている演劇部のOBなんてのは、
今じゃ考えられないくらい偉いので(笑)、
その決定に関しては全然問題なかったと思います。
彼らがどう思ったかはわからないですけど。
―― 演出家がおもしろそうだと持ってきた作品に対して、
わかった、やってみようという流れですね。
関 今だと、僕も大人になっちゃったんで、
相談したりもしますけど、
学生の延長だった頃は、
けっこう強権を発動していたかもしれません。
―― でも、やはり誰かが決めないことには、
そういうセレクションにはなりませんよね(笑)。
角川映画にインスパイアされたときには
『熱帯樹』を読んだことはあったんですか。
関 いえ、読んでないですね。
『サド侯爵夫人』とか『近代能楽集』は読んでましたが、
読んだことがあるものをやるのはつまらないというのが、
自分の中であったので。
―― 売れてない本をとりあげるのが角川映画ですからね(笑)。
関 自分自身でも
「読んでから稽古するか、稽古してから読むか」
みたいな(笑)。
―― 三島なり、三島の戯曲はいくつか知っているけれども、
まだふれたことがないもので演劇をつくってみたかった、
ということですね。
関 そうだったと思います。
▪︎三島由紀夫の「気合い」
―― 演出家として活動する上で、
あるいはその前段階でもいいのですが、
関さんにとって三島由紀夫は、
まず「人」としてどんな印象をお持ちでしたか。
関 僕は「有名な人」ってことで捉えてますね。
まわりからは
「三島由紀夫をやるなんて変わってるね」
とか言われることが多いんです。
でも、日本で有数の、戯曲を書く有名な人ですよね。
そういう矛盾はいつも感じますが、
やっぱり非常にポピュラリティがあると思いますよ。
―― そして、「戯曲を書いた人」という設定もある。
関 そうですね。
―― 本屋で文庫本が売られるほどの有名な人は少ないにせよ、
劇作家はたくさんいて、
たとえば安部公房のような小説家よりの劇作家もいる中で、
関さんは、三島のカラーというか、おもしろさを、
どんなところにみていたんですか。
関 若い頃、ともかく誰の全集でもいいから
全部読まなきゃいけないと思っていた時期があったんです。
―― 具体的にはいつ頃ですか。
関 それこそ、『熱帯樹』をやろうとした頃ですね。
せっかくだから、
三島さんの書いたものは全部読もうと思って、
全部読んだんです。
で、それだけで終わりにしないで、
三島さんが30歳で書いたものを
自分が30歳のときに読もうとか、
自分が齢をとるのと同じくらいのタイミングで読み返す、
みたいなこともやっているんです。
今なら43歳なので『癩王のテラス』あたりですね。まあ、45歳をこえたらなくなっちゃうんですけど(笑)。
―― なるほど。
関 そういうことをやっているときに感じたのが、
なんて言えばいいのかな、
僕なんかには到底及びもつかない……
「気合い」?(笑)
―― 「気合い」ですか(笑)。
関 そういうものがあるんです、彼の人生の中に。
その「気合い」に興味があるのかな、きっと。
―― それは文字から浮かび上がってくるような、
醸し出されてくるようなものですよね。
関 ええ。
なので、三島さんをやるにあたっては、
「生半可じゃできないよな」って気持ちと、
「すみません、生半可ですけどやっていいですか?」
って気持ちと、常に両方を抱ながらやっています。
―― 劇作家として優れている、
ということだけではないのかもしれませんが、
圧倒的な何かを感じていて、
作品を読み直すことや演劇をつくることの中で、
それに対峙していく。
そういう存在でもあるということでしょうか。
関 そうですね。
―― その「気合い」というのは、作品自体やそれが書かれた時期、
あるいは関さんがお読みになったり上演する時期で
変わって感じられるものなんですか。
関 うーん……。
彼の最期に対して
あこがれを持っているわけではないですし、
それを良いか悪いかの判断も僕にはできないですけど、
彼は1人ではなくて、複数で死んでいるんですよね。
そのことには、少し興味があります。
あれが1人だったらそんなに興味はないんですけど。
演劇も一応、複数でつくるものなので。
―― なるほど。
関 現実が虚構だったのか、
虚構が現実なのかもわからないですし、
あの最期だけを抜きだすと
危ないことになっちゃうんだけど、
三島さんの人生そのものが
非常に演劇的だと思うことはあって、
そのことには興味があるのかな。
―― 切腹をした、という行為ではなくて、
最後の大々的なパフォーマンスが複数人によるもので、
非常に「演劇的」に見えた。
そのあたりに、
先ほどおっしゃった「気合い」と通ずる何かがありそうだ、
ということでしょうか。
関 そうですね。
▪︎三島由紀夫の言葉を読む
―― 三島の作品について伺いたいのですが、
たとえば、先ほどの「気合い」を感じる度合いは、
小説と戯曲を比較したときに違いはありますか。
関 三島さんの作品から感じられるものは、
小説も戯曲も一緒ですね(笑)。
『熱帯樹』だったら5人の役がありますけど、みんな一緒。
―― 5人の登場人物ですら一緒、
そういう読み方をしているということですね。
一方で、今の見解に反するようですが、
三島の場合、一般的には小説よりも戯曲、
特に劇言語の評価が高い印象があります。
重ねての質問になりますが、戯曲でも小説でも、
三島作品について質的な違いは感じていらっしゃらない?
関 そうですね。
たとえば、
よく「僕は子供の頃、こういう夢を見たんだ、
船が庭の中へ入ってくる……」
みたいなことが書かれるんです。
また海から船が来ちゃったよ、
とか、
また帆船に鳥が止まっちゃったか、
みたいな(笑)。
―― ジャンルや作品単体よりも、三島の書いた言葉の集合
──ミシマ・ワールドに興味があるというほうが近いですか。
関 たとえるなら、B’zみたいな感じかな(笑)。
どの曲もテンションが常に高くて、
似たような印象も受けるけど、
それはでもB’zとしか言えない音楽ですし、
やっぱりポップですよね。
―― アーティストとしても、
曲としても、曲の中でも、
とにかくB’zらしいということですね。
そう言われると、次に聞くことがなくなっちゃう(笑)。
関 (笑)。
―― あと、
世評としては「三島の戯曲は言葉が立っている」
という独特な言い回しで評価されますが、
上演したときの印象として、
関さんはどうお感じになっていますか。
関 言葉は立ってるんですけど、あまりにも長い。
上演した場合、これだけ長い時間、
その立った言葉を聞ける土壌は
今はなかなかない気がします。
書いてあることが退屈と言っているんじゃなくて、
立っている言葉を3時間くらい聞き続けるとしたら、
眠くなっちゃいますよね(笑)。
―― たとえば『近代能楽集』は、立っている言葉のよさが
うまく作品になっているようにも思えますが……
関 『近代能楽集』は、
お客さんとして見る限りかもしれないですけど、
ストーリーの単純さと時間的な長さが、
そんなに不釣り合いじゃないんです。
でも『熱帯樹』とか『サド侯爵夫人』だと、
不釣り合いに感じますね。
―― 『熱帯樹』だって、
普通に上演したら3時間くらいかかりますよね。
関 僕が何時間でやるかわからないですけど(笑)、
ストーリーだけなら、
3行であらすじを書けると思いますので。
―― そうすると、あの絢爛、あるいは論理的な言葉が、
過剰に連なっているように見えているわけですね。
関 はい。
―― 演出や俳優の要素も含めて、たとえば、
平田オリザさんの「現代口語演劇」のようなものと、
三島戯曲のように、
ある意味で過剰な豊饒さに満ちた言葉を語ることは、
違う作業でしょうか。
関 それは違うと思いますよ。
三島さんの場合、
情景描写にしてもイメージの羅列がいっぱいあって、
そこに見えているイメージ以外の描写を
演出がすればいいのか、
あるいはイメージ通りのことをすればいいのか、
これだけ過剰に書かれていると、
僕はそこの選択で迷うんですよ。
せっかく書かれてるんだから、
これだけやればいいんじゃない?
ってこともあるかもしれないし、
もしかしたら「これはコップだ」というだけの言葉に
隠された別のイメージがあるかもしれない。
―― 演出する上で、戯曲の読み方、
捉え方も変わってくるということですね。
イメージが多く、
かつ裏のイメージも想定される三島作品には、
それゆえのやりにくさやおもしろさはあるんでしょうか。
関 たとえば、平田オリザさんの戯曲で
「死」について扱っているものがあって、
三島由紀夫さんの戯曲で
「死」について扱っているものがある。
それぞれにやり方があると思うんですが、
三島さんの場合、言葉のイメージが過剰で
「死」そのものがどこかへ行っちゃうんですよ(笑)。
だからそこを押さえつつ、という作業が必要になってきます。
―― 制御するポイントが増えるということでしょうか。
関 そういう気がします。
ある意味では、どちらも一緒なんですけど。
―― 本題がどこかへ行っちゃう、
かえって見えにくくなっちゃう。
でも、それは見えてなければまずいわけですね。
関 読んでいておもしろいと思うのは、
いろいろな情景描写があって、
たとえば「コップ」に対してものすごく修飾をする一方で、
『熱帯樹』の恵三郎が「俺の心がわからないのか!」
みたいなせりふを言うとき、
その「心」には何の修飾もなかったりするんです。
―― 意味的な重要性と言葉の量がアンバランスですね。
関 もちろん「心」を修飾するのに、
ものすごい量の修飾をする場合もありますけど、
そんなに修飾できる自分の「心」なんて
嘘かもしれないし、
「俺の心がわからないのか!」って叫ぶ「心」のほうが
本当っぽく見えたりもする。
それは規則性があるわけではないので、
そのつど読んだり考えたりしなければいけないですね。
▪︎『熱帯樹』を上演する
―― すでに具体例も出てきていますが、
今回『熱帯樹』を上演するにあたって、
作品自体への興味ですとか、
旗揚げ公演で初演された作品を、
いま上演することのねらいを伺ってみたいと思います。
関 初演は僕が25歳のときなので、
恥ずかしくて(笑)。……恥ずかしいなんて言うと、
じゃあ、
今やってることはどうなのかって話になるんですけど。
結局演劇のよさって、戯曲は残っていきますが、
上演は残っていかないということでもあると思うんです。
だから、というわけでもないけど、
初演がどうだったか、覚えてなくて(笑)。
―― でも、お客さんの中には、
初演を観た人がいるかもしれませんね。
関 確実にいるんですよ。
そういう方に「観ました」なんて言われたら……
困っちゃいますね(笑)。
―― 改訂や修正というより、新作として、
いま持っている技術やアイディアによって
ゼロからつくるというほうが近いんでしょうか。
関 近いですし、25歳のときには、
演劇をつくるプロセスの中で、
僕自身、未知のものと出会う作業があったんです。
でもだんだん齢をとると
「この音楽に感動しちゃったから使ってみたいな」
というようなことが非常に少なくなってきた。
たとえば、緒形拳が主演した
三島さんの映画(※『Mishima: A Life in Four Chapters』1985)
の音楽をフィリップ・グラスが担当していて、
非常にミニマルなんです。
1997年にそれを聞いたときは
「このくり返しがグッとくる」みたいな感覚があって
新鮮だったんですが、
今だと、ふつうにくり返しの音楽を出されたら
「ふーん」って感じですもん。
―― かつては斬新さを感じとっていたものが、
いまはただのくり返しとしか見えない。
関 このくり返しがこうなるのは知ってるし、みたいな。
あと角川映画の『Wの悲劇』(1984)は、
メタ構造になっていておもしろくて、
当時は感銘を受けたんです。
でも、この10何年、
僕はメタ構造の芝居をバリバリつくってる(笑)。
そこから離れたいと思っていても、
結局また戻っちゃったりするわけですよ。
―― そうであるならば、そうした感覚の変化もふまえて、
なぜ今『熱帯樹』なのか、改めて伺えますか。
関 自分の問題が大きいのかもしれません。
1997年に三条会を旗揚げして、
その旗揚げ公演で『熱帯樹』をどう上演したのかを
すっかり忘れているわけです。
そのことに、とりあえず向き合ってみようかと(笑)。
初心に返るみたいな感じですね。
―― すでに俳優と本読みをはじめているとのことですが、
俳優の読み方と、
演出家としての関さんが読んだアイディアや方向性と、
当初はくいちがったりするんですか。
関 初演と今回の違いとして、
初演の頃は、25歳くらいの若者が集まって、
この家族の話をつくったんですね。
今回は40歳くらいから23歳くらいまで、
一応、家族っぽい役の幅でつくっているので、
同世代だけで読む感じとは何かしら差が出るだろう……
と思いきや、そんなに出てこない(笑)。
そこですかね。自分の想定とずれているのは。
―― 三島の言葉の規制力が強いということでしょうか。
関 ポップなんじゃないですかね、やっぱり。
―― 誰が読んでも同じように受け入れられちゃう。
関 だと思いますよ。
単純な話、
あんまりポピュラリティのない戯曲を
若い子と年上の人が一緒に読むと、
読めない漢字に差が出たりするんです。
でも『熱帯樹』みたいなものは、
みんな読めますね。
で、読めない漢字はみんな一緒だったりする。
世代差はあまり出ないですね。
―― 『熱帯樹』が家族の劇で、
そこに年齢差や性差があることに関していえば、
演出プランとしては違いが見えたほうがいいですよね。
関 そうですね。
だけど、迷うことも多くて。
この作品は、兄と妹の近親相姦を扱っているんですが、
演劇表現として、たとえば、
若い子を2人キャスティングして
セックスシーンをつくっても、
それはただの若い子2人のセックスシーンになっちゃって、
観る側としては近親相姦にはならない。
その2つは全然別だと思うので、
そこを演劇でどうすればいいかということは考えています。
―― 舞台上でできる物理的表現が、
近親相姦も普通のセックスシーンも似てしまうので、
劇全体であったり、何かしらの近親相姦らしさを
観客に見せる仕掛けを入れていく必要がある
ということですか。
関 そうなんですよ。
場所の問題を考えても、
昔の家ってそんなに大きかったんですかね。
これは一軒家の話で、みんな一緒に住んでて……
でも、みんな大声でしゃべってる印象なんですけど(笑)。
―― 家中で、それぞれが秘密の話をしています。
関 でも、一軒家(笑)。
近親相姦にしても「いやいや、みんな家にいるって」と。
たとえば「両親が出かけていないから……」
みたいな状況ならわかりますけど、
普通にいますからね(笑)。
そういう気になる箇所を、
今はピックアップしているところです。
―― 鍵になりそうなポイントはありますか。
関 ええと……三島さんの戯曲って
「私」が「わたし」なのか「わたくし」なのか、
まずわからないんですよ。
どっちで読むかで、全然雰囲気が変わりますからね。
いまはまだ、そこで稽古が止まっています(笑)。
―― 家族構成を考えると、ちょっとお金があって、
上流階級のこじらせたお嬢さんみたいな雰囲気もあるので、
「わたくし」と読んだほうがなじみそうな感じもしますね。
関 役に関していえば、
たとえば、
勇はマザコンで弱々しいような第一印象はありますけど、
両親が強いじゃないですか(笑)。
遺伝子は受け継いでいるわけだから、
この2人からそんなに弱い子は生まれないんじゃないか、
本来は強いんじゃないか、
みたいなことは思います。
―― 逆でもいいわけですよね。
両親が虚勢を張っているという読み方でもいい。
性格を固定して読むと楽だし、
わかりやすいですけど、
そのあたりを丁寧に読んでいきたいということでしょうか。
関 ええ。
ほとんど家の中の話で、
外の世界が描かれていないのもおもしろいですし。
▪︎垢が落ちてすっきり
関 それから、タイトルも非常にいいですよね(笑)。
―― いいですね。
熱帯樹とか空想とか心とか、いくらでも肥大化し、
悪さをするけど、実体としては不確かです。
その一方、現実に死んでいく鳥や病んでいく妹もいて、
その組み合わせがおもしろい。
関 僕もそうですけど、みんな生きている限りは、
いろいろな「垢」みたいものがついていると思うんです。
でも、『熱帯樹』の上演を通じて、
これだけ過剰にいろいろな言葉をぶつけられたら、
俳優もお客さんも「垢が落ちてすっきり!」
みたいな感じになったらいいなと(笑)。
―― 「垢」というのは、まさに『熱帯樹』の絢爛な言葉、
ある種の余剰みたいなものでしょうか。
それ自体として存在してはいるものの、
そんなに意味を担ってはいないもの?
関 そうなんですよ。
たとえば、今ここで「三島言葉ごっこ」をしようか、
みたいなことって、できないですから。
やっぱり使っちゃいけない言葉って、
日常では使うようにできていて、
逆に……この「逆に」みたいな言葉は、
三島さんは絶対に使わないですし。
―― たしかに、そういう無駄はないですね。
関 でも、それに代わる無駄がたくさんある。
僕らの生きている日常も無駄だらけで、
この作品も無駄だらけ。
僕は無駄が大好きなんですけど、
垢を以て垢を制すというか、
無駄と無駄がぶつかるとどうなっちゃうんだろう、
みたいな感じになればいいなと。
―― 戯曲の中に何タイプかの「無駄」があって、
それを何らかの形で上演してみたときに、
お客さんのほうも……
関 「すっきり!」みたいな。
まあ、いちばん大事なのは、
僕は角川映画が好きだったということです(笑)。
(2015年5月31日@池袋)